名ドリブラー・水沼貴史が高校1年生のときに対戦した驚愕の選手「今まで出会ったことのない人だった」 (2ページ目)
一度逆方向へ進むことで、クロスを防ごうとする相手選手との距離を空けることができ、「そうすることで、(相手選手に)足を出されても(クロスが)当たらないんです」。
だが、その場合、クロスを上げるときに体を大きくひねることになるため、キックの精度を高めるのが困難なばかりか、そもそも上げることすら難しい。
水沼が、「今で言うと、長友(佑都)に近い」と言うように、水沼の高校時代から半世紀ほどが経過した現在では、木村の技巧はそれほど珍しいものではなくなった。しかし、当時の高校1年生にとっては、「そういうことをやる人は初めて見た」という代物だった。
とりわけ水沼が木村を強く印象に残しているのは、「僕もウイングだったから」。「監督から、クロスを上げる練習もたくさんさせられていた」からでもあった。
「たとえば、うちの高校のサイドバックは、スライディングしながらクロスを上げるのがうまかったんですよ。もう(ゴールライン)ギリギリのボールだけど、間に合うかどうかっていうところをスライディングしながらでも上げる、みたいな。それを僕も『やれ』って言われたけど、全然できなかった」
そう言って苦笑する水沼は、ウイングにとって大きな武器となるクロスに関してはさまざまなパターンを研究し、自分のものにするべく練習を繰り返していた。それゆえ、「自分のなかでも思い入れがあるプレーだった」。
だからこそ、「和司さんを見たときに、『あ、この人、普通じゃないな』って」。優れたウイングならではの直感だった。
自身には真似のできないプレーを見せる木村は、体格的にそれほど目立つものを備えていたわけではない。「もしかしたら、そのときからお腹周りはちょっとブヨブヨしてたかもしれない」と、水沼は冗談めかして笑う。
だが、「たぶん股関節の柔らかさがあったんだと思うけど、(ドリブルで)スルスル抜いてって、そのままグッて(クロスを)上げられる」。その特筆すべき技術に、水沼はとにかく圧倒されていた。
「それしか残ってないですよ、(初対戦のときの)和司さんの印象は」
(文中敬称略/つづく)
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。
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