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【Jリーグ】オランダ代表の10番がなぜ日本へ? ジュビロ黄金時代の土台を作ったファネンブルグの影響力 (3ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【古傷の左ひざの痛みが再発】

 1995年からは、ポジションを最終ラインへ下げた。即戦力の大型ルーキーとして名波浩が加入し、夏にはブラジル代表キャプテンのドゥンガがやってきた。高卒ルーキーの福西崇史がFWからボランチへコンバートされた。さまざまなチーム事情が加味されて、ファネンブルグはリベロで起用されていくことになる。

 そもそも視野が広くて、長短のキックを駆使することができるのだ。中盤より時間の余裕があり、全方位からプレッシャーを受けないリベロなら、持ち前のゲームコントロール能力を存分に発揮できる。このコンバートはファネンブルグとチーム、双方の可能性を拡げるものだった。

 ところが、1995年は21試合の出場にとどまった。リーグ戦の半分以上を欠場した。古傷の左ひざの痛みが、彼をピッチから遠ざけたのだった。

 1996年はリーグ戦30試合のうち22試合に出場し、5ゴールを記録した。しかし、シーズン終盤はケガが続いた。Jリーグ通算86試合14得点の成績を残して、ファネンブルグは1996年シーズン限りで日本を去った。

 翌1997年シーズンに、ジュビロはセカンドステージ制覇とチャンピオンシップ優勝を果たす。1998年はファーストステージを制し、年間最多勝ち点を記録したが、チャンピオンシップで鹿島アントラーズに敗れた。1998年はナビスコカップを制している。

 ここから磐田は、2000年代前半にかけて黄金時代を築いていく。中山雅史、藤田、名波、福西、服部年宏、高原直泰、田中誠らは、日本代表として国際舞台へ活躍の場を拡げていく。

 磐田加入前のファネンブルグは、アヤックスとPSVで数多くのタイトルを獲得してきた。オランダ代表でもヨーロッパの頂点に立った。

「だからジュビロでも、もちろんタイトル獲得を目指すよ。そのためにここに来たんだからね」

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