Jリーグを席巻する「相手にサッカーをさせない」戦い方 選手の創造性は薄れないか (2ページ目)
【革新的なサッカーは望めない】
「サッカーをさせない」
そればかりが目についた。たとえばFC東京の左ウイングバックに長友佑都がいるのは、守備重視の象徴だった。確かに相手にふたはできるが、高い位置でボールを受けても、撹乱するランニングや決定的な左足クロスはない。結局、ボールを戻すだけだった。
一方で、俵積田晃太をサイドではなく、シャドーで使っていた。俵積田は俊足を土台にした"騎兵"であり、機動力を生かした崩し、仕掛けに特長がある。生粋のサイドアタッカーで、複合的プレーが求められるシャドーでは、無理にボールを運ぼうとしてノッキングしていた。決勝点のアシスト役だったが、偶発的と言えるだろう。
そもそも、ポゼッションを志向したチームの補強FWがマルセロ・ヒアン(広大なスペースを生かしたプレーは得意だが、ボールを収め、気の利いたプレーは不得手)では理屈に合わない。適材適所という点でチグハグ。選手をフォーメーションに当てはめたような戦いが目立っている。あえて言えば、選手の持ち味も奪っているのだ。
それが窮屈な感じの正体だろう。
スペインでプレーする久保建英は、「小さい」「守備力が足りない」と懐疑的意見を向けられたこともあった。しかし、レアル・ソシエダではダビド・シルバのような左利きの選手たちと連係、攻撃的な才能を爆発的に開花させた。これはイマノル・アルグアシル監督の慧眼で、今や決定的ゴールを決めるだけでなく、高さで負けず、守備の貢献度も非常に高い。
小さな了見では、現在の久保は生まれなかった。
「サッカーをさせない」
その枠に囚われる限り、革新的なサッカーは望めないだろう。なぜなら、日々のトレーニングから選手に強度を中心に「リスク管理」を叩き込み、まずは「ミスをしない」という臆病さを植えつけてしまうからだ。サッカーの基本である"相手の逆を取る"という遊び心、それを実行する覚悟などは醸成されず、覚醒が見込めない。
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