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高校サッカー選手権の満員の国立競技場で思い出す静岡県勢の黄金期と「御三家」の歴史 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【御三家が生まれた理由】

 広島、埼玉、静岡が「御三家」と言われるようになったのは、偶然ではない。

 日本で初めて本場英国の指導書を参考に本格的にサッカーに取り組み、在日外国人チームに挑戦しながら強化と普及に務めたのが東京高等師範学校(東京高師、筑波大学の前身)だった。その東京高師の卒業生たちは、各地の中学校や師範学校に赴任してサッカーを指導した。

 師範学校と言うのは小学校の先生を育てる学校で、高等師範学校というのは中学校(現在の高校に当たる)や師範学校の先生を養成するための学校だった。

 たとえば、埼玉県浦和にあった埼玉師範には1908年に東京高師出身の細木志朗が着任。浦和でサッカーが盛んになったのは細木の指導によるものだ。現在、浦和レッズのエンブレムに描かれている古い建物が埼玉師範の校舎だった鳳翔閣であることはご存じの方も多いだろう。

 同じように、1911年には広島県立中学に東京高師出身の松本寛次が赴任して、同校だけでなく広島市内の学校でサッカーの指導に当たった。広島中学がのちの広島一中、現在の国泰寺高校だ。

 静岡県でサッカー強化が始まったのは、もう少しあとのこと。藤枝町に志太中学校が開校したのは1924年のことだったが、初代校長として赴任したのがやはり東京高師出身の錦織兵三郎で、当時、静岡県では野球が非常に盛んだったのだが、錦織校長はサッカーを新しくできた学校の校技に指定したのだ。

 つまり、20世紀の初めに東京高師出身の若い教師たちによって撒かれた種が花開いて、「御三家」となったというわけだ。

 現在では、サッカーは全国各地で発展し、高校サッカーも「御三家」の時代ではなくなった。しかし、埼玉県にはJリーグ最多の観客動員数を誇る浦和レッズがあり、広島には2024年のJリーグで準優勝したサンフレッチェ広島がある。広島には昨年、新しいサッカースタジアムも完成した。ちなみに、サンフレッチェ広島のクラブカラーは紫だが、1911年に松本寛次が着任した広島中学(広島一中、国泰寺高校)のカラーも紫だった。

 こうして現在の日本サッカーは、100年以上前からの長い歴史的なつながりの上に成り立っているのだ。今、各地のクラブや高校チームで行なわれている取り組みは、きっと100年後の日本サッカーにつながっていくことだろう。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

【写真】第103回全国高校サッカー選手権大会の注目選手たち

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