高校サッカー選手権の満員の国立競技場で思い出す静岡県勢の黄金期と「御三家」の歴史 (2ページ目)
【静岡勢の前は埼玉勢の時代、戦後に活躍の目立った広島勢】
静岡勢黄金時代の前には、埼玉県(浦和)の時代があった。
浦和高校が全国選手権で初めて優勝したのは1951年度の第30回大会。第2次世界大戦が終わってすぐあと、戦前は旧制中学の大会だったが、戦後の学制改革で新制高校の大会となったばかりのことだ。1954年度、1955年度に浦和高が連覇し、1956年度には浦和西が初優勝して浦和勢が3連覇。以後、浦和勢と静岡勢との競い合いが続くことになる。
そんな浦和の時代の最後を飾ったのが、日本が銅メダルを獲ったメキシコ五輪の翌1969年度に初優勝し、首都圏開催となった1976年度の第55回大会決勝で静岡学園との激闘を制して連覇を飾った浦和南だった。
浦和南の活躍は梶原一騎原作の『赤き血のイレブン』として劇画化もされ、浦和南からは永井良和、田嶋幸三、水沼貴史などが日本代表として活躍した。
また、全国大会での優勝経験はないものの、浦和西の西野朗はそのルックスのよさから女性ファンから絶大な人気を集め、のちに日本サッカーリーグや日本代表で活躍。五輪代表監督としてアトランタ五輪で「マイアミの奇跡」を起こし、日本代表監督では2018年のロシアW杯でラウンド16進出を果たすことになった。
静岡勢、浦和勢と並んで「御三家」と称されたのが広島勢だった。
現在の全国高校サッカー選手権大会は1918年に行なわれた日本フートボール大会が始まりだ。当初は関西だけの大会だったが、初めて全国に門戸が開かれた第9回大会(1925年度)で決勝に進出したのが広島一中だった(兵庫の御影師範に敗れる)。
その後、広島一中は戦前に2度優勝し、戦後、新制高校の大会となって初めての1948年度大会では「鯉城高校」と校名を変えて優勝している(のちに「国泰寺高校」となる)。そのほか、戦前の広島高等師範附属中学も、戦後は広島大附として1958年度大会で準優勝。1952年度に初優勝した修道は、1961年度にも京都の山城を破って優勝した。
広島高等師範附属中学(のちの広島大附)のエースだった長沼健はのちに日本代表監督や日本サッカー協会専務理事、会長として日本サッカー界をリードする存在となり、長沼が監督時代の日本代表には広島出身選手が多く、「広島弁がチーム内の公用語」とさえ言われていた。
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