セルジオ越後からジーコまで 日本サッカーが影響を受けたブラジルの超絶テクニック (3ページ目)
【ブラジルスタイルの読売クラブとジーコの来日】
1980年12月から翌81年1月にかけて香港で開かれたスペインW杯アジア1次予選で、日本は中国に敗れてしまったものの、金田や木村のほか、風間八宏や戸塚哲也、都並敏史といった20歳前後の日本人選手の個人技は中国や北朝鮮を上回っていた。風間は静岡の清水商業高校(現、清水桜が丘高校)出身、戸塚や都並は読売サッカークラブの選手だった。
読売クラブは、1970年代から将来のプロ化を見据えたクラブ作りを進め、1972年に来日した与那城を皮切りに多くのブラジル人選手がプレー。個人技を生かしたブラジルスタイルで人気を集めた。そして、与那城にスカウトされて1977年に来日したのが若干20歳のルイ・ゴンサウベス・ラモス・ソブリーニョという選手だった。後のラモス瑠偉だ。
来日当初はDF登録で、さしてうまい選手とは思えなかった。しかも、トラブルを起こして1年間の出場停止を受けたりしていたが、その後は読売クラブの攻撃の中心として活躍。Jリーグが開幕し、日本代表の強化が始まった頃には、ヴェルディと日本代表の攻撃の組み立て役として大活躍。三浦知良(カズ)と並ぶスーパースターとなった。つまり、日本で成長した選手だった。
1980年代に、その読売クラブとJSLや天皇杯で覇を競い合ったのが日産自動車だった。
加茂周監督の下、金田や木村、水沼貴史といったテクニシャンを揃えた日産でも何人ものブラジル人選手がプレーしたが、1987年にはオスカー(ジョゼ・オスカー・ベルナルディ)が加入した。ブラジル代表として3度のW杯に出場。代表キャプテンも務めた名選手だった。サッカーのプロ化を前に、ブラジルから代表級の選手もやって来るようになったのだ。
また、読売クラブにはカルロス・アルベルト・ダ・シルバやペペといったブラジルの一流監督もやって来るようになった。
そして、Jリーグ開幕直前の1991年には、ペレの後継者としてブラジル代表のゲームメーカーとして活躍したジーコが、住友金属工業(鹿島アントラーズの前身)と契約。当時JSL2部で戦っていた鹿島にとって、ジーコの加入は「オリジナルテン」入りの決め手となり、ジーコの指導によって鹿島はたちまちJリーグきっての強豪クラブとなった。
そして、1993年にJリーグが開幕すると、まるでジーコに引き寄せられるように、鹿島のジョルジーニョやレオナルド、横浜フリューゲルスのジーニョやサンパイオといった現役ブラジル代表選手が何人も来て、日本でプレーするようになっていったのである。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
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