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伊東輝悦「悔しかった」日韓W杯メンバー落選 海外クラブ移籍も「ちょっとやってみたかった」 (3ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【カズさんと北澤さんに申し訳ない】

 アトランタ五輪を戦った選手たちは、大会後に日本代表に招集されていく。伊東も五輪翌年の1997年に国際Aマッチデビューを飾り、1998年のフランスワールドカップのメンバー入りを果たす。史上初のワールドカップへ向けて日本中が沸き立つ裏側で、複雑な思いを抱えていた。

「アジア予選には1試合も出ていないし、フランスワールドカップの直前に使われたのが、たしか代表2試合目で。その自分が入って、カズ(三浦知良)さんと北澤(豪)さんが外れた。俺、残っていいのって。ちょっとびっくりというか、ずっと試合に出ていたおふたりに申し訳ないというか」

 自らを肯定できなかったのは、ピッチに立つことなく大会が終わったからかもしれない。「たしかにそうかもしれない」と伊東は同意し、表情に悔しさをにじませた。

「代表チームのなかでワールドカップの空気を感じられたのは、よかったかなと思う。でも、ピッチでしか感じられないものは、たぶんいっぱいある。ピッチに立たないとスタンドで見ているのと変わらない......というのはちょっと言いすぎかもしれないけど、それぐらい違いがあるよなあと思った」

 4年後の日韓ワールドカップは、メンバー入りを逃した。指揮官フィリップ・トルシエの構想にはしっかりと入っていたのだが、ワールドカップイヤーのスタートでケガをしてしまい、最後のサバイバルレースに参加できなかったのだ。

「アピールして入れなかったのならともかく、その機会をケガで逃してしまった。あれは悔しかったな」

 アトランタ五輪やフランスワールドカップをともに戦った中田英寿、川口能活、城彰二は、ヨーロッパのクラブでプレーした。同じ静岡出身で2学年上の名波浩も、Jリーガーの海外移籍の先駆者となった。

「ヒデ(中田)とかゾノ(前園真聖)さんとかは、五輪当時から海外を意識していたような気がするけど、俺はそこまでの意識は持てなかった。そのふたりとか能活とかは、五輪が終わって代表に呼ばれたけど、俺はすぐには呼ばれなかったし。

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