名選手がひしめき合うユーゴサッカーで鹿島ポポヴィッチ監督の印象に残った選手たち (3ページ目)
イヴァン・ゴラツに乞われて年契約で入団したものの、ポポはいざピッチに出てみるとそれまで持っていた自信が一気に吹っ飛んだ。
「パルチザンのトレーニングのあまりのレベルの高さに驚かされたのです」
先述したザホヴィッチでさえ、まだぺーぺーの時代である。他にはドゥシュコ・スタノイコヴィッチ、ブディミル・ヴヤチッチ。世界最強のレッドスターと伍して戦う集団だけに一緒にいた選手がすべてワールドクラスなのだ。永遠のライバル、レッドスターが母体である秘密警察の情報をもとにリクルートすれば、パルチザンは軍の徴兵データから、優秀なタレントを探し出してくる。翌年にはパルチザンにスーパーなFWがモンテネグロのブドゥチノストからやって来た。プレドラグ・ミヤトヴィッチ。8年後にはレアル・マドリードでチャンピオンズリーグの決勝ゴールを決めるアタッカーである。中盤の選手では2000年シーズンにスペインリーグを制覇するデポルティーボ・ラコルーニャの心臓となるスラヴィシャ・ヨカノヴィッチもノビ・サドから移籍してきた。
「私はそんなとんでもなく質の高いメンバーの中で、引け目を感じることなく力を出すということを考えました。そのときのお手本はミルコ・ジュロヴスキー。グランパスでピクシー(ストイコヴィッチの愛称)が監督だったときに右腕となったボシュコ・ジュロヴスキーコーチの弟です。彼とイタリア代表のフランコ・バレージのプレーを常に見ていました。厳しい環境に落ち込んでネガティブに考えても、その先には何も待っていない。14歳で父を亡くしたときから、自分には『それはできない。無理です』という選択肢はすでに無かったのです。どんな難局でも解決策を見つけなくてはいけなかった。私が生活を支えないと妹や弟もだめになってしまう。そのときのモチベーションは、天国の父を失望させてはいけないということ。行動も思考もそれを基準にしました。尊敬していたサッカー選手の叔父も亡くなっていたので、まずいプレーをしたら叔父に怒られるだろう。叔父の顔に泥を塗るわけにはいかない。その一心でした」。
1987年のワールドユースで優勝したユーゴスラビア代表の選手たちも続々とトップチームに昇格していた。クロアチアのディナモ・ザグレブにズボニミール・ボバン、ダヴォル・シューケル、ハイデゥク・スプリットにアレン・ボクシッチ、イゴール・シュティマッツ、これらの選手は1998年フランスW杯でクロアチアを3位に押し上げる主力たちである。レッドスターのストイコヴィッチ、サビチェヴィッチ、プロシネチキは、やがて移籍先のマルセイユ、ミラン、レアル・マドリードで皆それぞれが10番を背負っていく。これら世界トップレベルの同世代選手がひしめくユーゴサッカーシーンの中でポポは必死に食らいついていった。
つづく
著者プロフィール
木村元彦 (きむら・ゆきひこ)
ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。
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