名選手がひしめき合うユーゴサッカーで鹿島ポポヴィッチ監督の印象に残った選手たち (2ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Yukihiko Kimura

この記事に関連する写真を見る ユーゴ史上最高の選手と言われたジャイッチは、ポポがリクルートを受けた1989年当時はすでに現役を退き、レッドスターの強化担当を担っていた。ジャイッチ自らがニシュまで行ってスカウトしたストイコヴィッチ、モンテネグロ人のデヤン・サビチェヴィッチ、さらにはロベルト・プロシネチキ、マケドニア人のダルコ・パンチェフ、ルーマニアから亡命してきたミオドラグ・ベロデディチなどきらめくタレントがこのクラブには集結しており、2年後のトヨタカップ制覇に向けて着々とチームメンバーが編成されていた。監督はレッドスター5大星人のひとり、ドラゴスラヴ・シェクララツ。レッドスターはクラブにおいて大きな功績を残した選手に対して星人の称号を与えているが、シェクララツは2代目、ちなみに3代目はジーコがその実力を認めるジャイッチで、4代目がアレクサンダル・チャヴリッチ(鹿島)をユース時代に育てたヴラディミール・ペトロヴィッチ、5代目がストイコヴィッチである。

 レッドスターとパルチザンは同じ日にキャンプインする予定であった。ポポが赤い星のバスに乗りかける直前にパルチザンの監督に就任したばかりのイヴァン・ゴラツが待ったをかけて来た。現役時代、イングランドのサウサンプトン、クリスタルパレスでプレーしていたゴラツは野心家だった。宿敵レッドスターにポポを渡さないための好条件を持ち出してきた。ポポは回顧する。「年の複数契約を結ぼうと言ってくれたのです。母や妹や弟を養うことを考えたら、この安定条件に乗らないわけにはいかなかった」。

 家族の生活を守るためにパルチザンに入団した。同期には独立後のスロベニア代表チームで絶対的なエースとして活躍するズラトコ・ザホヴィッチがいた。2002年の日韓ワールドカップに祖国を導くこの左利きのストライカーは、激しい気性から、日本のキャンプ地で監督のカタネッチとぶつかって二戦目をプレーせずに強制帰国させられることになるのだが、それはまだ先のお話。「ザホヴィッチは若い頃から、賢くて、テクニックも申し分なかった。昔はあんなに短気ではなかったのだけれど」。(ポポヴィッチ)

 ポポがパルチザンで最初にランチをしたチームメイトがザホヴィッチと同じスロベニア人のダルコ・ミラニッチだった。のちにイビツァ・オシムが率いるシュトゥルム・グラーツでディフェンスラインを形成し、ともに多くのタイトルを獲得することになる盟友である。ミラニッチは指導者となってからは、グラーツやリーズ・ユナイテッドの監督を歴任し、スロバキアのスロヴァン・ブラチスラヴァを指揮した際にチャヴリッチの才能と人間性を評価し、鹿島の指揮官に就いたポポに推薦した人物でもある。もちろん、知り合った当時は、そんな未来があることなど、想像もしていないが、ポポとミラニッチは会った瞬間から馬が合った。結婚するときには互いにクーム(仲人)となっている。

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