松井大輔がサッカー人生の氷河期から脱出できたキッカケ「またカズさんの影響をモロに受けた」 (2ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi

【ここは俺が活躍できる場所じゃない】

── ジュビロでは2年目に昇格を決めましたが、J1になってからは出場機会が減少気味だったので、もしかしたら引退が近いかもしれないと思って見ていました。

「僕ももう36歳でしたし、本当はあの時点で引退しようかなって考えていたんです。ジュビロはとても優しいクラブで、そのまま面倒を見てくれるとも言っていただいていましたし、だったらジュビロで引退するのがいいのかなって。

 そしたら、そんなタイミングでポーランド行きの話が舞い込んできたんです。海外にまた行けると思うと、もう僕としては絶対に行きたくなるじゃないですか(笑)。あの時は、そんな軽い気持ちで海外移籍を決めました。

この記事に関連する写真を見る ところが、そんな気持ちで行ったら洗礼を浴びちゃいました(笑)。ポーランドのリーグはレヒア時代に経験していましたけど、オドラ・オポーレは2部リーグだったので、とにかくピッチ状態がひどすぎて、サッカーどころじゃなかった。フランスの2部リーグとも雲泥の差で、ホームスタジアムのピッチがもう終わっているんですよ(笑)。

 そんなグラウンドなので、相手チームはパスがつなげないから、オドラ・オポーレはホーム戦で圧倒的な強さを誇っていた(笑)。でも僕は、そんなぐちゃぐちゃなグラウンドでドリブルもできないし、テクニックも通用しない。そうなると、30代後半の僕が活躍できる可能性はゼロ。『ああ、ここは俺が活躍できる場所じゃない』って、すぐに悟りましたね」

── わずか半年で再び帰国することになり、今度は横浜FCでプレー。この時代で驚いたのは、ボランチにポジションを変えてニュータイプの松井大輔になったことでした。

「もともと、アジリティがなくなる晩年になったらボランチしかないって考えていたんです。現代サッカーだとサイドは走らないとできないし、かといってDFはできない。そうなると、一番スプリントをしなくてもいいのはどこかと考えたら、ボランチだなって。

 そこで、自分がボランチで生きていくためには何が必要かを考えたら、もうハードワークして相手を削るようなプレースタイルに変えるしかない。真ん中でプレーするテクニックはあると思っていたので、あとはハードワークができれば両方できる選手だという印象を与えるじゃないですか。あいつはボールも奪えるし、テクニックもある。そう思ってもらえれば、ボランチとしてやっていけるだろうと思って、プレースタイルを変えました」

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