オッツェがわずか1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった「またドイツで活躍できると思ってしまって...」 (2ページ目)
【帰国の理由は家族の事情だけではなかった】
1993年の夏にジェフに加入し、1994シーズンには40試合出場30得点を記録してJリーグ2代目・得点王に輝いた。ただ、当時を振り返る喜びの言葉は少ない。
「チームメイトがよかったから得点王になれただけです。Jリーグは始まったばかりで、多くの(主に日本人)選手よりも僕のほうが経験があったので、そこはちょっとアドバンテージがあったんだと思います」
オッツェは1994シーズンの得点王にも輝いた photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 名だたるスター選手たちと得点王争いを演じたが、「あまり昔のことを覚えていないタイプなんですよ。昔の集合写真を見ても、名前を思い出せない選手もいるくらいだし。ライバルのことなんて、もっと覚えていないんです」とそっけない。
だが、記憶に残っているのは、意外なことだった。
「Jリーグの日本人キーパーの質は、たしかによくなかったですね。『もしかしたら両方とも左手(利き手ではないくらい不器用)なんじゃないか』って思うくらい下手でした。でも、当然だったかもしれません。Jリーグはスタートしたばかりで、ちゃんとしたキーパートレーニングなんて知らなかったのかもしれないし」
得点王になったそのシーズン後、オッツェはドイツに戻ってしまう。理由とされたのは「家庭の事情」だった。だが、帰国の理由はそれだけではなかった。
「日本に1年半ほど住んで、妻と長男もちょっとドイツが恋しくなった、という理由もありました。僕も『再びブンデスリーガで十分できる』って思っちゃったんですね。日本で30点も取ったことで、またドイツでも活躍できるって思ってしまったんです」
キャリアの終盤を飾る思いで日本に来たオッツェだったが、異国の地で再起のきっかけを掴んだことで、1994-95シーズン後半からハンブルガーSVに加入する。
「ただ、ドイツでもできると思ったけど、そうでないことはすぐにわかりました。ハンブルガーSVにはブレーメン時代のチームメイトだったベノ・メールマンが監督をしていて、呼ばれて戻ったのですけど、シーズン途中(1995年10月)に解任されてしまって。そして次に監督になったのが、フェリックス・マガト。それでもう、僕の体はついていかなくなってしまって......」
オッツェがマガトと言っただけで、「それは仕方ないね」と苦笑いするしかなかった。
マガトと言えば、長谷部誠や内田篤人が「鍛えられた」という鬼軍曹ぶりで知られた存在。理不尽なほどのハードなトレーニングは、1990年代当時であれば長谷部らの時代よりも格段にきつかっただろうと、同情するほかはない。
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