清水エスパルス秋葉忠宏監督「自分はクズだとわかっていますから、みんなの力が必要だと」理想の監督像などを語った

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by アフロ

清水エスパルス
秋葉忠宏監督インタビュー前編

今季、第8節から清水エスパルスの指揮を執る秋葉忠宏監督今季、第8節から清水エスパルスの指揮を執る秋葉忠宏監督この記事に関連する写真を見る

 4月3日、ゼ・リカルド解任のあと、秋葉忠宏が清水エスパルスの監督に就任した。それまで5分け2敗と低迷するチームを引き受けると、それからの8試合を6勝2分けの無敗で乗りきり、独特の手腕でチームをV字回復へと導いた。選手を熱い言動で鼓舞し、負けると自らを「ヘボ監督」と言いきり、自省する。秋葉とは、どういう監督なのか。なぜエスパルスを変えることができたのか。Jリーグイチ「熱い漢」の内側を探ってみた。

 秋葉は、1994年市立船橋高校からジェフ市原に入団、96年にはアトランタ五輪に出場した。その後、セレッソ大阪、アルビレックス新潟、徳島ヴォルティス、ザスパ草津、SC相模原でプレーし、2010年に引退した。

――現役時代から指導者には興味があったのですか。

「ありました。当時、選手会で巡回指導(JFAが展開している、子どもたちにサッカーを楽しむ時間を提供するプログラム)というのがあって、23、24歳の時に経験したんです。指導者ってこんな目線で見ているんだ、こんなことを伝えたいんだなとかが理解できたし、そういう目線を持つことで自分のプレーの幅も広がったんです。それからすぐにB級のラインセスをとりにいきました。引退後を考えると、ネクタイを締めて何かできるタイプではないですし、フットボールが大好きなのでずっと携わっていたいなと。僕は能力が高いほうじゃなくて、ボランチやセンターバックをしていた時、人を動かしながら守備をしたり、ゲームを作るほうが好きだったので、そういうことも指導者に向いているのかなと思っていました」

――現役時代、影響を受けた指導者はいましたか。

「いや、これがサッカーではあまりいないんですよ(苦笑)。メンタルというか、プロ意識みたいな部分では市船の布(啓一郎)先生ですね。まだ、高校生で人間形成ができていない時期に、『スポーツの世界は不平等だ』、『1-0で負けて新聞だけ見たら市船弱いで終わる。負けたら何の意味もない。勝たないと評価が上がらない』、『学年とかは関係ない。ピッチでは力がある奴が一番だ』とか、先生らしからぬことを言う人で。でも、そこでプロの意識みたいなものが培われたなと思います」

Jリーグの監督になるために必要なS級ライセンスをとるためには、講習や実技指導だけではなく、インターンシップで国内外のクラブで練習などを見て学び、レポートの提出などが義務づけられている。秋葉は、ベガルタ仙台で指揮を執っていた手倉森誠の門を叩いた。

――なぜ、手倉森監督だったんですか。

「08年にJ2で3位になってJ1で16位の(ジュビロ)磐田と入れ替え戦をやって負けて、翌09年は圧倒的な強さでJ2で優勝してJ1に上がったんです。この人、どんなことをしているのかなと興味があったので仙台に行きました。朝から晩まで張りついて、すべてのミーテイングに参加させてもらい、1週間、誠さんのノウハウを吸収させてもらいました。これが縁でのちに誠さんのリオ五輪のチームにコーチとして呼んでもらったんです」

――指導者のスタートはコーチですね。

「水戸(ホーリーホック)で哲(柱谷哲二)さんの下でコーチをやらせてもらったんですが、めちゃくちゃお世話になりました。僕は生意気な性格なので、S級をとったらすぐに監督なんかできるわって思っていたんです。でも、コーチをやることで哲さんのすごさみたいなものを見せてもらいました。その時、監督をいきなりやらないでよかった。やっていたら、とんでもないことになったと思いましたね」

――どんなことを柱谷さんの下で学んだのでしょうか。

「ピッチ内というよりも外のことです。スポンサー、メディア、サポーターとどうつき合っていくのか。社長やGMとどう関係性を築いていくのか。自分がやりたいことを周囲に理解してもらいながらやっていかないとうまくいかない。実際、哲さんはそれで(コンサドーレ)札幌では3カ月しかもたなかったとか、そういう話もしてくれたのですごく勉強になりました」

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