真夏の高校サッカー大座談会開幕。80~90年代の「国立のヒーロー」たちが集まった (2ページ目)

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

開幕したJリーグに参加しなかった2人

 94年度の第73回大会で、市立船橋(千葉)の初優勝時のエースFWとして強烈なインパクトを残したのが森崎である。森崎自身は当時を振り返り「運がよかった。たまたま」と話すが、帝京(東京)との決勝でハットトリックをマークしたほか、打点の高い得意のヘッドで得点を量産。準決勝を除く1回戦から決勝までの全試合で得点を挙げるなど、8ゴールで得点王に輝いた。

 のちに日産自動車を経て横浜マリノス(現横浜F・マリノス)などでプレーし、ハンス・オフト時代の日本代表でもプレーした山田を除けば、平澤、江原、森崎の3人の名をその後のサッカー界で聞くことはなかった。

 平澤と江原はプロへの道を選ばず、森崎は市船のチームメイトだった鈴木和裕、茶野隆行とともに鳴り物入りでジェフに入団するも、わずか2年で退団。彼らはその後どんなキャリアを歩んできたのだろうか。

 東海大一を卒業後、トヨタ自動車に就職した平澤は、名古屋グランパスの母体となったトヨタ自動車サッカー部に所属。ともにプレーした選手のなかにはJリーグの誕生とともにプロ化した選手も少なくなかったが、平澤にはサッカー選手として生きていくイメージがまったくなかったという。

「(高校卒業時は)まだ日本にプロリーグができることさえ知らなかった。同期が大学を出るタイミングでJリーグがスタートしましたが、プロとしての先が見えなかった。実業団のサッカー部に入ったわけで、引退後は会社に残って働くことに何の迷いもなかったですね」(平澤)

 武南を卒業後に中央大に進学した江原は、高校3年時の国体で痛めた首(頸椎)のケガが長引き、大学卒業を前にサッカー選手生活に別れを告げた。

「ケガの具合がどうにもよくなくて......。選手権で得点王になって周囲に期待されているのは感じていましたが、最後は箸もうまく持てず、日常生活を送るのも精一杯で、もういいかなって」(江原)

 その後は、俳優業などを経て、現在は埼玉県内の不動産会社に勤務しながら、自らクラブの立ち上げにも関わった、埼玉県川口市から将来のJリーグ入りを目指すアヴェントゥーラ川口(関東2部リーグ)のジュニアユースの監督を務めている。

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