槙野智章はずっと「もったいない」男だった。最後の最後で伏線を回収した奇跡のフィナーレ
むしろ、"持っていない"選手だと思っていた。いや、"もったいない"と言うほうが適切かもしれない。
その印象を強くしたのは、2007年12月のこと。サンフレッチェ広島vs京都サンガのJ1・J2入れ替え戦で、槙野智章はヒーローとなるはずだった。
第1戦を1−2で落としていた広島は、ホームで迎えた第2戦でも京都に手こずり、0−0のままタイムアップの時を迎えようとしていた。
しかし、終了間際にこの日最大のチャンスが訪れる。セットプレーの流れのなか、左サイドからのクロスを槙野は渾身のオーバーヘッドで合わせる。しかし、ボールは乾いた音とともにポストを叩き、ネットを揺らすことはできなかった。
直後に試合終了の笛が鳴り、広島はJ2に降格した。決めていればチームをJ1残留に導くヒーローとなったのだが、そこで決めきることができなかった。あの時から筆者のなかでは、槙野智章=もったいない選手としてのイメージが刻まれている。
今季の天皇杯は槙野智章の劇的ゴールで幕を下ろしたこの記事に関連する写真を見る もったいないエピソードは、ほかにもある。2010年のジュビロ磐田とのナビスコカップ決勝では、2点ビハインドで迎えた延長戦で川口能活を打ち破る豪快なFKを叩き込むも、終了間際に訪れたPKを失敗。その時点で再び2点差がついていたのでこれを決めたどころで勝ち目はなかったのだが、FKを決めた槙野ではなく、PKを外した槙野としてこの敗戦の記憶が残ることとなった。
2011年にケルンに移籍する際には、背番号「2014」の代表ユニフォームを着用し、ドイツ行きの飛行機に搭乗。しかし、ケルンではほぼ試合に出られず、目標としていた2014年のワールドカップ出場は叶わなかった。
ちなみにそのワールドカップでCBとして選ばれたのは、広島ジュニアユース時代のチームメイトで、ユースには昇格できなかった森重真人(当時FC東京)と、U−20日本代表では槙野のサブに甘んじていた吉田麻也(当時サウサンプトン)のふたりだった。
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