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阿部勇樹の引退で思い出す「多色ビブス練習」。オシムチルドレンは今、どうしているのか? (2ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by Getty Images

【闘莉王はブラジル帰国後...】

 ギド・ブッフバルト監督のもとで2005年はリーグ2位と天皇杯優勝、2006年はリーグ優勝と天皇杯優勝。2007年はACLを制するなど黄金期にあった浦和の屋台骨を支えた鈴木は、オシム体制で初めて日本代表に選出され、『水を運ぶ人』としてチームの中核を担った。

 しかし、岡田武史体制への移行当初こそ日本代表に名を連ねたものの、2008年にコンディション不良で調子を崩すと、2008年6月を最後に招集外。復調した2009年以降も日本代表に再招集されることはなかった。

 最終予選で主将を務めながら本大会はメンバー外になった2004年アテネ五輪に続き、2010年ワールドカップ南アフリカ大会のメンバー入りも叶わなかった鈴木は、2015年で現役を引退。現在は実業家に転身し、アスリートの健康をサポートする仕事に携わっている。

 同じく浦和では田中マルクス闘莉王も、オシム体制で日本代表の道が拓けた選手だ。サンフレッチェ広島から浦和へ移籍した2004年からJリーグ・ベストイレブンの活躍を見せながら、ジーコ時代は一度も招集されなかったが、オシム体制発足と同時に代表初選出。ケガなどもあって計9試合の招集だったが、そのすべてでスタメン起用された。

 2007年に代表引退を撤回した中澤佑二とのCBコンビは、岡田体制下での2010年W杯ベスト16へとつながった。闘莉王の代表活動はこのW杯が最後で、2006年からの5年間の日本代表歴は出場43試合8得点。その後は2010年から名古屋グランパス、2017年から京都サンガでプレーし、2019年に現役を引退した。引退後は生まれ故郷のブラジルに帰り、牧場を経営している。

 昨季かぎりで現役引退した中村憲剛は、オシム体制5戦目で初めて日本代表に選出された。そこからオシム体制終焉まで16試合で名を連ね、攻撃をつかさどる『エクストラキッカー』(水を運ぶ人の対義語)として中村俊輔、遠藤保仁とともに躍動した。

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