三笘薫「オーラを出さないといけない」。フロンターレで自身の役割と考えていたこと (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 三笘が選んだのは筑波大学だった。高3の春に練習参加をした際、練習のレベルと個人の質が高く、自分を成長させてくれる場だと感じたからだった。

 大学では今の三笘を形成する上で欠かせない、多くの経験ができた。例えばチームづくりだ。川崎のユースは、セレクトされた選手が集まったエリート集団だ。みんな能力が高く、ジュニアユースから昇格した選手などはお互いを理解しているので、チームづくりは比較的スムーズで、上下関係もなかった。

 しかし、大学でチームの勝利に貢献するには、自分のプレーを出しつつ、仲間のフォローやサポートもそれまで以上にしなければならなかった。

「チームづくりは本当に大変でしたが、だからこそいろんなことを学べました。個人的にはプレーでは一番にならないといけないという自覚がありましたし、みんなの先頭に立ってやらないといけないと思っていました。プレー以外でも学年がひとつ上がる度に役割が変わり、それを果たしていく責任が大きかったです。一人暮らしをしていたので、食事や体のことなどもいろいろと考えないといけなかったので、本当にいい経験ができました」

 Jリーグの育成組織でプレーしてきた三笘にとっては、大学で勝つ大変さを知り、上下関係など含めて改めてチームづくりの難しさを学べたのは、入学する前に必要だと考えていた人間的な成長を促す点においても非常に大きかった。

 そうしたなかで、同時に「プロになるためにどうしたらいいのか」を常に考えて生活していたという。大学2年生の時、川崎は鬼木達監督が就任。J1で初優勝を果たした。黄金時代のスタートになり、チーム層は非常に厚く、競争も激しくなっていた。

「フロンターレがすごく強くて、どうしたらチームになじめるか、どうしたらレギュラーになれるかと考えていました。そのためには自分の武器を磨いて、自分の能力を上げていくしかないので、日々の練習をしっかりと積み重ねていくことにフォーカスしていました」

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