高校サッカー史に残る野洲の優勝。主将が語る現在の高校生との違い (3ページ目)

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

 金本はコーチとして力を注ぐにあたり、当時の優勝メンバーに声をかけた。鹿児島実業との決勝戦で「高校サッカー史上、もっとも美しいゴール」と呼ばれた得点を決めた、瀧川陽である。野洲高の黄金時代を知る瀧川は、滋賀県のサッカースクールでコーチとして働いていた。指導経験は申し分ない。

 そしてもうひとり、背番号9の顔が頭に浮かんだ。高校卒業後、ジェフ千葉に進んだ青木孝太である。青木はジェフでプレーした後、ファジアーノ岡山やヴァンフォーレ甲府、ザスパクサツ群馬を経て、2015年に現役を引退していた。

 引退後も連絡を取り合う仲だった金本は青木に声をかけ、自らのビジョンを語った。それは、自身が35歳になるまでにジュニアユースのクラブを作り、そこで育てた選手を野洲高に送るというプランだ。

 青木は28歳で現役を引退すると、「自分はサッカー以外の世界を何も知らない。このままだとマズイ」という気持ちから、会社員として大阪で働いていた。青木が言う。

「僕も野洲高に元気がないのは知っていました。ニッチョ(注・金本のあだ名)がコーチになって、ゆくゆくはジュニアユース、ジュニアのクラブチームを立ち上げようと聞いたので、何か協力できればと思っています。現役を引退する時は、もうサッカーはいいかなと思っていたのですが、人生のほとんどをサッカーと共に生きてきたので、切り離すのは無理なんですよね。今の子たちに、自分が培ってきたものを伝えていけたらなと思って」

 サッカーから離れられないのは、金本も同じだった。

「誰に会っても言われるんです。『そんないい経験を生かさない手はないやろ』って。それに感化された部分は大きいですね。過ごしてきた時間、経験はお金では買えないですから」

 金本は小学1年生でサッカーを始め、「たまたま近所にあったクラブだった」というセゾンFCで、後に全国優勝のメンバーとなる平原研や乾貴士と出会った。そこでは、岩谷篤人監督(当時)から「相手の逆をとる」「全員で同じイメージを描く」というサッカーを厳しく叩き込まれた。そして野洲高では山本監督のもと、選手の個性を尊重し、伸び伸びとプレーすることを学んだ。

 高校卒業後に進んだ京都産業大学では、これまで培ってきたサッカー観とは真逆の「走ることだけがコンセプトだった」(金本)というギャップに順応できず、2年生時には10番をつけていながらも、サッカーへの情熱が少しずつ薄れていった。

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