伊藤翔は海外→日本の移籍で苦労「小野伸二さんに教育してもらった」 (2ページ目)
愛知県の中京大中京高校時代、練習したプレミアリーグ、アーセナルFCで当時指揮を執っていたアーセン・ベンゲル氏から高い評価を受け、「和製アンリ」と呼ばれたのが伊藤翔だった。当然、高校卒業後の進路には注目が集まる。2007年1月、彼はフランスリーグ当時2部だったグルノーブルでプロのキャリアをスタートさせた。日本人がオーナーを務めた同クラブには当時、大黒将志や梅崎司が在籍し、のちに松井大輔もチームメイトとなった。
自身のキャリアを振り返った伊藤翔
しかし、度重なるケガにも泣かされ、3シーズン半の在籍中、リーグ戦に出場したのはわずか5試合にとどまった。2010年6月清水エスパルスへ移籍し、2014年シーズンからは横浜F・マリノスに所属。エスパルスで同僚だった白崎凌兵とともに今季から鹿島アントラーズに加入した。Jリーグを経由することなく、欧州でプロデビューした高卒選手というキャリアは伊藤にどんな影響を及ぼしたのだろうか?
――30歳になり、ご自身のキャリアを振り返ったときに、欧州でプロ生活をスタートしたことをどう感じていますか?
「まずは選手寿命が延びたことじゃないですか? 高校を出てそのままJリーグに入って、一瞬でいなくなる可能性も、もちろんあっただろうから。でもまあ、本当にいろいろありましたから」
――「和製アンリ」と騒がれていたときの騒動はどんなふうに感じていましたか?
「特にどうこうということはなかったです。先のことをあまり考えるタイプじゃないので。とりあえず1日1日頑張ろう、やれることをやろうと思っているだけで。もちろん、ヨーロッパでプレーし続けられたら良かったとは思いますが、とりあえず、ここまでプロとしてなんとかやってこれたという感じもありますし、清水、横浜、鹿島とステップアップしてきたというキャリアには自分でも驚いています」
――グルノーブル時代、ケガとの闘いをはじめ海外生活の苦闘というのがあったと思います。Jリーグで心身共にプロとしての土台を作ることなく挑戦した舞台だから、厳しさも増したんじゃないですか?
「うーーん。でも、結局は自分次第だと思うんですよ。確かにJリーグにいたほうが、いろいろと気にかけてくれる人や言ってくれる人が多いかもしれない。でも、言葉をかけてもらっても、気づけるかどうかというのは、自分次第だから。もちろん、グルノーブルにオグリさん(大黒)さんや松井さんといった先輩がいてくれたのは力になったし、田辺和良さんという当時のGMにも本当にお世話になりました」
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