齋藤学が明かす電撃移籍とW杯落選。「今なら話すことができます」 (4ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • 是枝右恭●撮影 photo by Koreeda Ukyo

「リハビリに励んでいる最中に、クラブからショックなことを言われて悩みましたし、自問自答もしました。僕は8歳から横浜F・マリノスで育ちましたけど、同時にもうひとつ、自分の中にあるのは、僕は川崎市に住み、川崎市の小学校に通っていて、川崎フロンターレというクラブが自分の住んでいる町にどれだけ根づいているかを肌で感じてきたということ。ホームスタジアムのある等々力陸上競技場に近い町に住み、フロンターレの存在を身近に感じてきた。

 だから、自分にとってはフロンターレでプレーするのか、それともマリノスに残るのか、そのどちらかしか選択肢はなかったんです。本当に悩んだ時期は苦しかったですけど、最終的には、自分が外に出て、自分自身がどう変わっていくのかを自分でも見てみたかったんです」

 物心(ものごころ)がついたころから、横浜F・マリノスで育ってきた。サッカー人生のほとんどを、そこで過ごしてきたと言っていい。川崎フロンターレでプレーする今、地元への愛着を語るように、育ってきたクラブへの思いが簡単に消えることはない。

「何を言っても誤解される可能性もあるし、わかってもらえない可能性もある。それに、そこを去る人間がいろいろと言って出ていけば、残された人たちがつらくなる。僕はそれがわかっているから、何も話さなかったし、言わないことにしたんです」

 それだけで十分だった。いつか本人の口から、すべてが語られるときが来るのかもしれない。だが、彼は口をつぐむことで、すべてを背負うことに決めたのである。

 すべてを話すことが、思いの丈(たけ)を語ることが、真摯であり、愛情とは限らない。それは誰よりも、齋藤自身が身をもってわかっていたのである。

(後編に続く)

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