【育将・今西和男】久保竜彦「S級より、小学生にサッカーの楽しさを伝えたい」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 今西は選手教育の一環として、講師を招いてのプレゼンテーションやスピーチ、ディスカッションの講座を催していたが、この2人が組むとまったく会話が進まなかった。

「あの2人は今何をやっているのか、わからないもんだから、『皆の前で話し合え』と言っても止まってしまいよるんですよ。ところが、これがプレーになると、まさに阿吽(あうん)の呼吸と言うんかな。トントントンとすばらしいコンビネーションプレーを見せよるんですよ」

 ピッチでは、ボールという最大のコミュニケーションツールがあった。久保は早い結婚によって私生活が落ち着いてきたこともあり、不動のFWとして順調にキャリアを重ねていった。

 今西は大木についても試合に出さないと成長しないと考え、J2の大分トリニータへレンタルに出すなどして、キャリアの覚醒を図った。大木の場合は技術の高さは誰しもが認めるところであったが、ケガの多さと運動量の少なさから、それに見合う評価を外国人監督から受けられなかったことが災いしていた。レンタル先の大分でも、ケガに見舞われて満足な活躍ができず、2000年のシーズン終了時に解雇されてしまう。

 J2をクビになった選手をJ1のレンタル元が戻すわけにはいかない。他のクラブのテストも受けたが、どこも不合格になり、大木は故郷、愛媛に戻ってハローワークで求人を探していた。そこに今西から電話がかかってきた。「何をしとるんや」「仕事を探しています」「広島に戻って来ないのか」「えっ、まだサッカー出来るんですか」「お前はまだ出来る。わしがまた取るから帰って来い」

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