【特別寄稿】FC岐阜・恩田社長、病気公表までの苦悩と葛藤 (6ページ目)

  • 木村元彦●文 text & photo by Kimura Yukihiko

――ラモス監督には、いつ伝えましたか。

「監督には1月23日に。『絶対に社長を辞めるな。家に閉じこもっていても良くならない。絶対に勝利をプレゼントするから一緒に笑って、一緒に泣こう』と言ってくれました。弱者を勇気づけたいという男気を見せてくれましたね」

――恩田さんのその強さは、どこから来ているのでしょうか。

「いえ、私はALSになった患者さんの中では本当に恵まれていると思っているんです。地元の人に喜んでもらえる岐阜のサッカークラブ経営という、こんな天職に就けて、今も続けていられる。本当にいろんな方が励ましてくれたり助けてくれている。私はたまたま目立つ仕事をしているのでこういうふうに心配してもらえますが、そうでない状況の患者さんもいる。私は幸福です。

 少し心配するのが、私が取材を受けてがんばっているという露出が伝わり方によっては、他のALSの患者さんを傷つけてしまわないかということです。まだ他の患者さんのためにもがんばりますとか私が言うのはおこがましいと思うんです。私は今まで通りのご支援をいただいて、今まで通りの私を見ていただきたいんです」

――では、FC岐阜の社長として今年の課題は。

「去年はサッカーに興味の無い方をスタジアムに呼ぶ施策をして、一定の成果を得ました。一方でサッカーに重心が行かなかった。今年はサッカーが一番の見せ方をしないといけないと思います。だからうちのアカデミーのコーチなどに、戦術に関する公開講義を開いてもらいました。2月7日に行なって200人ほどサポーターが来てくれました。目が肥えたサポが選手を育てる。岐阜のサポーターが一番サッカーを知っているというふうにしたいですね」

 別れ際に握手した手はすでに握力を感じない。しかしもう凛とした経営者の顔になっていた。

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