狙うは代表とW杯。「這い上がってきた男」豊田陽平の野望 (2ページ目)

  • 小宮良之●取材・文 text by Komiya Yoshiyuki photo by YUTAKA/AFLO SPORT

 豊田が初めて全国的に注目されたのは、2008年に行なわれた北京五輪の前だった。平山相太など並み居るFWを退け、本大会に滑り込むようにして五輪メンバー入り。結局、チームは惨敗したものの、豊田はナイジェリア戦でゴールを決め、この大会での日本代表唯一の得点者になり、ストライカーとして才能の片鱗を感じさせた。

 しかし、その翌シーズンに移籍した当時J1の京都サンガでは不遇を囲い、2010シーズンからJ2にいた鳥栖に新天地を求めている。その一方で北京世代の本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司らは南アフリカW杯を戦い、堂々と世界へ勇躍していった。

「不甲斐なさはありましたよ、当然ですけど」

 彼は唇を噛むようにして、ここまで這い上がってきた。2011シーズンにはJ2で得点王に輝いて鳥栖を自らJ1に導き、2012シーズンは昇格チームとしては快挙に等しい5位躍進に貢献している。

「気持ちの部分で変わったとは思いますね」

 豊田はそう変化を説明する。

「昔、J1(京都)でプレイしたときは、それまでJ2(山形)でやっていたことができなくなってしまった。もっと落ち着けばいいところで、やたらと焦っていたと思います。でも、鳥栖に来てゴールという結果を出し続けることで視野が広がり、周りを使いながら、自分も使ってもらえるようになった。能力的なモノはあまり変わっていないんです。不安や思いこみが、判断や読みを狂わせるんだと思いますね。経験を積むことで、状況に合わせて対処ができるようになりました」

 豊田を日本代表に、という気運は静かに高まっている。

 先日のヨルダン戦でも、本田が不在の日本攻撃陣はゴール前で得点力の乏しさを感じさせた。FWをポスト役やおとりに使う、というのもひとつの考え方だろうが、世界と戦うには、最前線で圧倒的な圧力をかけ、守備の砦を崩せる豊田のようなFWが求められる。そもそもアルベルト・ザッケローニ監督は、過去、ウディネーゼとミラン時代にオリバー・ビアホフのような大型で破壊力のあるセンターフォワードを重用しているのだ。

「代表への思いはありますよ」と訥々(とつとつ)とだが、強い信念を込めて豊田は語っている。現在の日本代表の中核を担うのは、豊田と同じ北京世代の選手たちである。

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