サッカー日本代表を育てた国立競技場の歴史 ベテランライターが忘れられない名勝負とは?
連載第37回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
前回に続き今回も『国立競技場』についてです。1960年~70年代に国際試合が頻繁に行なわれ、「サッカーの聖地」と呼ばれていた時代の様子を記します。
旧国立競技場で行なわれた1967年の日韓戦 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る
【国立は「サッカーの聖地」と呼ばれていた】
僕が初めて国立競技場を訪れたのは1964年10月の東京五輪の時のことだ。陸上トラックの赤と芝生の緑が印象的だった。開会式翌日のハンガリー対モロッコ戦。名手ベネ・フェレンツがひとりで6ゴールを決めてハンガリーを勝利に導いた。
当時、サッカーはマイナー競技だったので入場券の売れ行きがよくなかった。そこで、都内の小中高校生がスタンドを埋めるために動員され、当時新宿区内の小学6年生だった僕も学校から国立競技場に連れていかれたのだ。そして、これが僕にとってサッカーとの出会いだった。
それ以降、おそらく1000回くらいは国立競技場で試合を見てきたはずだ。なにしろ、1960年代から70年代にかけて、国際試合や当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)では国立競技場が頻繁に使われていた。
だから、国立は「サッカーの聖地」と呼ばれていたのだ。
「陸上兼用だから試合が見にくい」などと文句を言う人はいなかった。
旧国立競技場は東京五輪でメインスタジアムとなった陸上競技場だったから、たとえば照明にしてもトラックの部分は明るかったが、芝生の中央つまりセンターサークル付近はとても暗かった。
それでも、陸上兼用としてはサッカーの試合が見やすいスタジアムだった。
スタンド最前列はトラックのすぐ外側まで迫っており、傾斜も急だったから、ピッチまではそれほど遠くなく、俯瞰的に見ることができた。今の国立競技場よりもずっと試合が見やすかった。
もちろん、専用球技場に比べたら試合は見にくい。それでも誰も文句を言わなかったのは、他に選択肢がなかったからだ。当時、日本には野球場以外で5万人以上が入るスタジアムは国立以外になかったのだ。
1964年の東京五輪で使用された三ッ沢球技場(現ニッパツ三ッ沢球技場)や大宮サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)はあったが、いずれも1万5000人程度の小さなスタジアムだった。だから、ビッグゲームは国立以外ではできなかったのだ。
旧国立は、サッカーだけでなく、陸上競技やラグビーの聖地でもあった。ひとつの大規模スタジアムを各競技で使用する......。それは当時の世界の常識でもあった。たとえば、1974年の西ドイツW杯ではドルトムント以外の会場はすべて陸上兼用だった。
だが、米国ではかなり前からアメリカンフットボールは専用競技場で行なわれていたし、欧州でも英国やスペインではサッカー専用競技場が当たり前だった。そして、1990年代以降になるとドイツやフランスなどでも専用化が進み、21世紀に入ると、交通アクセスのいい都市部に近代的でコンパクトなスタジアムを建設するのがトレンドとなった。
今では日本でも専用球技場がいくつも建設されている。大規模スタジアムを陸上、サッカー、ラグビーに使うというのは、もう時代遅れの発想になったのだ。
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著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。