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サッカー日本代表が対戦するインドネシアとの因縁 35年前は敵将にピッチを酷評されたことも (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1938年W杯に出場しているインドネシア】

 インドネシアにオランダ生まれ、オランダ育ちの選手が多いのは、インドネシアがかつてオランダの植民地だったので、オランダに多くのインドネシア系住民が住んでいるからだ。オランダの総人口は1700万人ほどだが、一説によるとインドネシア系は37万人にのぼるという。

 東南アジアの島嶼部やマレー半島には多くの民族が共存しており、かつては小さな国に分かれていた。ところが、17世紀に香辛料を求めて欧州列強が進出。最大勢力だった英国とオランダの東インド会社(貿易会社だが、外交権や軍事力も持つ)が、地元の人たちの意向は無視して一方的に境界線を引いてしまった。

 こうして英国支配下に入った地域が現在のマレーシアとなり、オランダ領が現在のインドネシアとなった。

 そのため、現在のインドネシアは第2次世界大戦前には「オランダ領東インド」(蘭印)と呼ばれており、1938年のフランスW杯にも出場している(1回戦でハンガリーに0対6と大敗)。

 この、フランスW杯予選には実は日本も参加を申し込んでいた。アジアからエントリーしたのは日本と「蘭印」だけだったから、予選で「蘭印」に勝ちさえすれば日本は1998年ではなく、その60年前に行なわれたフランスW杯に出場できたはずだったのだ。

 1934年に行なわれた極東選手権大会(日本、フィリピン、中国が参加する総合競技大会。「蘭印」は1934年大会に初参加)で、日本は「蘭印」と初めて対戦して1対7で大敗を喫してしまった。

 監督の竹腰重丸が大日本体育協会の仕事のために指導できなかったので準備不足だったうえ、開催地マニラの暑さで多くの選手がコンディションを崩してしまっていた。また、「蘭印」ではオランダ系の選手がプレーしており、彼らのフィジカルに対応できなかったようだ。

 だが、同大会で「蘭印」は中国、フィリピンには敗れており、それほど強いわけではなかったようだ。

 日本は、1936年のベルリン五輪では強豪スウェーデンに逆転勝ちして世界を驚かせていた。そして、1940年には東京での五輪開催が決まっていたため、国家予算を使って強化が続けられるはずだった。実際、当時、日本の同盟国だったドイツやイタリアとの親善試合の計画もあった。

 そんな日本が予選で「蘭印」を破って1938年のW杯に出場して経験を積むことができていたら、日本代表の強化は大幅に進んでいたはず。1940年の東京五輪で上位進出を果たすことも不可能ではなかっただろう。

 だが、1937年に中国・北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突する事件が起こって、両国は全面戦争に突入。大日本蹴球協会はW杯予選出場を取りやめざるを得なくなってしまった。そして翌年、日本政府も東京五輪開催返上を決定。日本代表の強化もストップしてしまう。

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