サッカー日本代表が対戦するオーストラリアサッカーの歴史と日本との長いライバル関係 (2ページ目)
【欧州系移民のスポーツ】
一方、オーストラリアは1974年の西ドイツW杯にアジア・オセアニア代表として初出場を決めた。僕は「ああ、ライバルに先を越されてしまったぁ」と思って、正直、かなりがっかりしたのを覚えている。
その西ドイツW杯を観戦に行った僕は、ハンブルクのフォルクスパルク・シュタディオンで西ドイツ対オーストラリア戦を観戦した。
当時、オーストラリアでは「サッカーは欧州系移民のスポーツ」と思われており、実際、代表の主将でDFのマンフレート・シェファーもドイツ生まれだったので(11歳の時にオーストラリアに移住)西ドイツの新聞でも話題になっていた。
しかし、オーストラリアは西ドイツに0対3で完敗。最終戦でチリと引き分けただけで、グループリーグ最下位に終わり、アジア・オセアニアと世界の差を見せつけられた。
オーストラリアはかつて英国植民地だった(1901年に自治領として事実上独立)。そして、英国系オーストラリア人の間ではクリケットやラグビー系のフットボールが盛んだった。
メルボルンがあるビクトリア州ではアイルランドのフットボールを起源に持つオーストラリアン・ルールズ・フットボール(オージーボール)が盛んで、10万人以上の観客を集めることも珍しくなかった。楕円形のクリケット・グラウンドで行なわれ、手と足を使って楕円球をゴールに入れる勇壮な競技だ。
シドニーがあるニューサウスウェールズ州で最も人気が高いのは13人制のリーグ式ラグビーで、15人制のユニオン式(日本で行なわれているラグビー)も盛んだった。
そして、タスマン海を渡った対岸のニュージーランドはユニオン式ラグビーの国だ。
こうしたラグビー系フットボールに比べて、当時のオーストラリアではサッカー人気は高くなく、プレーしているのは欧州系移民ばかり。クラブも「マルコーニ」(イタリア系)とか、「セントジョージ・ブダペスト」(ハンガリー系)、「シドニー・オリンピック」(ギリシャ系)といったように、それぞれのルーツを示す名称を名乗っていた(いずれもシドニーのクラブで現在もセミプロ・クラブとして活動中)。
第2次世界大戦でオーストラリアは日本と戦火を交えた。そして、戦後は独立したばかりですぐ北隣に位置するインドネシアや中国と対立する。インドネシアの人口は約7000万人(現在は約2億8000万人)で中国は約5億人(現在は約14億人)。それに対して、1950年のオーストラリアの人口は約1000万人だった(現在は約2500万人)。
そこで、「国を守るためには、人口を増やさないといけない」ということになり、欧州大陸から大量の移民を受け入れたのだ(アジアからの移民は受け入れなかった)。こうして、当時経済的に苦しかったイタリアやギリシャ、旧ユーゴスラビアなどから大量の移民がやって来て、彼らは母国で盛んだったサッカーを愛し続けた。
元横浜F・マリノス監督(現トッテナム監督)のアンジェ・ポステコグルーはアテネ生まれのギリシャ人で5歳の時にオーストラリアに渡ってきた。また、新しくオーストラリア代表監督に就任したトニー・ポポヴィッチはシドニー生まれのクロアチア系二世だ。
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