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サッカー日本代表が対戦するオーストラリアサッカーの歴史と日本との長いライバル関係

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

連載第19回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。日本代表がW杯最終予選で対戦するオーストラリア。1956年の初対戦以来、両国は長いライバル関係を築いてきました。ラグビーも盛んな相手国のサッカーの発展、日本との対戦の歴史を伝えます。

2006年ドイツW杯では日本はオーストラリアに痛い逆転劇を食らった photo by Getty Images2006年ドイツW杯では日本はオーストラリアに痛い逆転劇を食らった photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る

【半世紀以上も日本のライバル】

 僕の心のなかでは、オーストラリアは半世紀以上も前から日本サッカーのライバルだった。

 両国が初めて顔を合わせたのは1956年のメルボルン五輪の1回戦。日本代表関係者は対戦相手が欧州や南米の強豪国でないので喜んでいたらしいが、日本は0対2で敗れてしまった。当時の日本代表屈指のFWだった長沼健(のちの日本代表監督、日本サッカー協会会長)が病気で入院し、欠場したのが響いた。

 次に両国が対戦したのは1968年3月のことだった。

 この年、10月のメキシコ五輪出場権を獲得していた日本代表(長沼監督)は、現地を経験するためにメキシコに遠征。同国五輪代表に0対4で完敗し、高地の厳しさも体験したあと、オーストラリアに転戦。結果は第1戦が2対2の引き分け。第2戦が1対3の負け、最終戦が3対1の勝利とまったくの互角だった。

 当時、僕は英語の勉強のためにと思って『ワールドサッカー』という英国で発行されている雑誌を定期購読していた。世界各国のニュースが載っている雑誌だった。そして、同誌に現地記者による日豪戦の詳報が掲載され、3試合で4ゴールを決めた釜本邦茂のことが大きく紹介されていた。

 日本人選手が欧州の雑誌で本格的に紹介されたのは、これが初めてのことだろう。

 若きエースストライカーだった釜本は早稲田大学卒業後、ヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)に入団すると同時に西ドイツ(当時)の1.FCザールブリュッケンに留学。のちに西ドイツ代表監督となるユップ・デアバルの指導を受けて一段と得点力を増していた。

 とにかく、その記事を読んで、僕はオーストラリアのサッカーに初めて興味を抱いた。「これは、日本の格好のライバルだ」と思ったのである。

 日本はメキシコ五輪で銅メダルを獲得したが、翌年のメキシコW杯予選では釜本が急性肝炎のために欠場したのが響いて、オーストラリアと韓国にそれぞれ1分1敗で敗退してしまった。

 そしてその後、日本は長~い低迷期に入る。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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