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ワールドカップアジア最終予選開幕 サッカー日本代表の初戦の相手・中国との長い歴史と興亡 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【中国は日本サッカーの目標のような存在だった】

 僕が日本代表と中国代表の試合を初めて見たのは1980年12月のこと。香港で行なわれたスペインW杯アジア・オセアニア1次予選だった。

 大幅に若返った日本代表は風間八宏、金田喜稔、木村和司、戸塚哲也、都並敏史といった豪華メンバー。いずれもまだ20歳前後の若者だった。彼らのテクニックによって日本はボール支配率では中国を大きく上回った。

 木村のFKも大きな武器で、中国を応援しているはずの香港の観衆も、木村がFKのボールをセットすると「オーッ」と歓声をあげた。

 だが、日本は決定力不足。開始早々に中国のベテラン、容志行にミドルシュートを決められた失点を返すことができず、そのまま0対1で敗れたのだ。日本はこのあと、北朝鮮にも延長戦の末に敗れて、1次予選敗退となった。

 容志行は当時32歳。20世紀のアジアを代表するFWのひとりだったはずだが、全盛期には中国がまだ国際舞台に復帰していなかったので、国外ではあまり知られていない。

 もうひとつ、1980年代の日中戦で忘れてはならないのが1988年ソウル五輪の最終予選だ。

 韓国は開催国なので予選には出場しない。日本にとっては20年ぶりの五輪出場のチャンスのはずだった。中国・広州でのアウェー戦では、西ドイツから帰って代表に復帰した奥寺康彦が左サイドバック(SB)として中国の攻撃の起点となる右SB朱波を封じ込め、原博実のヘディングシュートで日本が先勝。

 ところが、東京・国立競技場での雨中の最終戦で、日本は0対2で敗れて五輪出場権を失った。当時の日本代表は守備を強化してきたはずなのに、引き分けでもよい試合で2失点してしまった。

 もともと、中国は日本サッカー界にとっては目標のような存在だった。

 日本が初めて中国と対戦したのは1917年に東京で行なわれた極東選手権大会。日本と中国、フィリピンが参加した総合競技大会のサッカー競技だった。日本からは当時日本最強だった東京高等師範学校(筑波大学の前身)が代表として出場したのだが、中国には0対5、フィリピンには2対15と大敗を喫してしまった。

 中国を代表して出場したのが香港の南華体育会(サウスチャイナ)。香港は英国植民地だったので、英国人チームと競い合っており、当時の香港はアジア最強だった。

 その後、極東選手権で中国を倒すことが日本サッカー最大の目標となったが、1930年東京大会で引き分けたものの、第2次世界大戦前にはとうとう一度も中国に勝つことはできなかった。

 戦後は、台湾(中華民国)が加盟していたため中国がFIFAを脱退してしまったので、中国との対戦はほとんどなくなった。そして1970年代に中国がまずAFC、その後FIFAに復帰してようやく交流できるようになったのだが、前述のように日本は中国相手に苦戦を強いられ続けた。

 ようやく、日中韓の力関係が逆転したのは、1990年代になってJリーグが発足してからのことだった。

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