パリ五輪でのなでしこジャパンのメダルに期待 28年前のアスリート優位状況からテクニック&戦術の時代へ (4ページ目)
【当初はアスリート能力の高いアメリカや中国がリード】
話は脱線するが、学生たちが日本人のチームと試合をしたいと言い出したことがある。1992年の話だ。学校の女性副所長(サッカーのことは何も知らない)が、サポートを受けていた東京ガス横浜支店の支店長にその話をしたら、支店長(こちらもサッカーをまったく知らない)が「そういえば、うちの本社にサッカー部がある」と思いついたのだ。
副所長は「それで、試合をすることを決めてきた」というのである。
「えっ、東京ガス本社のサッカー部ってマジですか!」
東京ガスと言えば、JFLに所属し、アマラオをはじめブラジル人もいる強豪クラブである(FC東京の前身)。
こうして、アメリカ人学生のチームは横浜の金沢区にある東京ガスのグラウンド(JFLの会場としても使われていた)に乗り込んだのだ。どうなることかとヒヤヒヤものだったが、こちらのチームに女子学生もたくさんいたので、東京ガスの選手たちはすぐに状況を把握して適当に遊んでくれた。
閑話休題。本題に戻ろう。とにかく、アメリカの選手たちのアスリート能力の高さは目を見張るばかりだった。それに、銀メダルを獲得した中国の選手たちも同様だった。
中国の場合は、アスリート能力が高く、ほかの競技をやっている選手のうち、適性のある選手を選んで国家命令でサッカーをやらせたのである。当時、女子サッカーは世界的普及度が低かったので、集中強化をすれば五輪でメダルが取れる可能性が高かったからだ。
1991年の第1回女子W杯は中国で開催されたし、1999年の第3回大会で中国は決勝に進出。アメリカとスコアレスドローの末、PK戦に敗れて準優勝に終わっている。
1990年代は中国女子の絶頂期だった。1994年のアジア大会では日本は決勝戦で中国と対戦し、0-2で敗れたが、当時の感覚では「0-2なら大善戦」だった。
日本の女子サッカーは、その後少しずつ努力を積み重ね、テクニックと戦術を生かしたサッカーで急速に力をつけ、2011年の女子W杯で優勝。五輪でも2012年ロンドン大会に銀メダルを獲得している......。まさに、夢のような物語である。
今回のパリ五輪でもすばらしい成績を期待したい。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
【写真】田中陽子 今昔フォトギャラリー/2012年ヤングなでしこで大活躍!
4 / 4