五輪サッカープレイバック 2008年北京大会は成績最悪もその後のA代表メンバーの数はトップクラス
【短期連載】五輪サッカープレイバック
第1回/2008年北京オリンピック
パリ五輪開幕までまもなく――という状況を受けて、五輪サッカーの歴史を少し振り返ってみたい。ここでは、直近4大会における選手選考や成績、さらにはその後の選手の活躍などを顧みつつ、当時の時代背景や、現在との違いなどに迫ってみたいと思う。第1回は、2008年北京五輪だ――。
北京五輪代表メンバーの面々。同大会では結果を残せなかったが...。photo by Koji Aoki/AFLO SPORTこの記事に関連する写真を見る オリンピックで金メダルを獲っても、そのメンバーから誰もA代表に入れなかったら意味がない――。
U-23代表の五輪での成果を考えるとき、よく言われることである。
つまり、U-23代表とは五輪で結果を残す(メダルを獲得する)ことを目標にはしているが、それは短期的な動機づけにすぎず、真の目標はA代表の強化。すなわち、ひとりでも多くの選手がA代表に選ばれることであり、ひいてはワールドカップで活躍することなのだ。
とはいえ、それを実現するのは、それほど簡単なことではない。20代前後の時点での選手の評価が、必ずしも将来のそれとイコールにはならないからだ。
しかし、五輪本大会に登録されたメンバーのほとんどがのちにA代表に選出された経験を持つ、という意味で特筆すべき世代がある。
それが2008年北京五輪に出場した、いわゆる北京世代である。
と同時に、この世代にはもうひとつ、ほかとは異なる特徴があった。
それは、アジア最終予選に出場していなかった選手が、五輪本大会の登録メンバーに数多く選出されたということである。
その数、実に8人。フィールドプレーヤーの半数が、最終予選にまったく出場していない、つまりはその後に伸びてきた選手だったのだ。
たいていの場合、五輪本大会に臨むチームというのは予選を通して固まっていき、その過程において、予選に出場した選手が監督の信頼に足る存在になっていく。言い方を変えれば、予選を戦ったメンバーは、監督にとって変えづらいものになっていくのが、通常の流れである。
ところが、北京五輪当時U-23代表を率いた反町康治監督は、そうはしなかった。
もちろん、そこにはさまざまな理由がある。
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