大久保嘉人がザックジャパンに呼ばれたのは「引退を考えていた時だった。『えっ、俺が?』と思った」 (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun

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 この南アフリカW杯の戦い方、敗因を踏まえて、日本代表はイタリア人で攻撃的なサッカーを標榜するアルベルト・ザッケローニを監督に招聘。4年後のブラジルW杯に向けてスタートした。

 2010年10月、ザックジャパンの初陣となるアルゼンチン戦、大久保は代表に招集されなかった。実は南アフリカW杯のあと、大久保は帰国後に体の不調を訴えていた。

「帰国して、ちょっと休んでチーム(当時の所属はヴィッセル神戸)に合流したけど、体がだるくてまったく動かない。練習場には行くけど、練習着に着替えもせず、ただ(練習を)見ていた。気持ちも入らないし、いっそこのままサッカーをやめようかなと思っていた」

 精密検査を行なった結果、『燃え尽き症候群』と診断された。

 南アフリカW杯前のスイス合宿では、多くの選手が疲労を抱え、動きが重いなか、逆に大久保は体が軽く、大会に入ってから(動きは)落ちていくと思っていた。ところが、大会中もコンディションがよく、プレーの質は落ちなかった。

 結果的に、気が張り詰めた試合が続くなか、過度のストレスと疲労を蓄積していたせいか、終わったあとに完全に体力を消耗。大きな虚脱感が生じてしまったようだ。

「体が動かないので、そこからしばらくは休んでいました。(その後)復帰したけど、休んでいる間、何もしていなかったので、プレーをし始めたら、モモ裏と両足のふくらはぎの3カ所、肉離れをしてしまって。それでもプレーしたけど、W杯後はもうボロボロでした」

 そうした状況にあって、大久保が日本代表に招集されることはその後もなかった。その間、ザックジャパンは2011年アジアカップを制覇。メンバーが固定され、チーム作りは着々と進行し、ブラジルW杯予選へと向かっていった。

 大久保にザッケローニから声がかかったのは、2012年2月だった。国内組中心で臨んだ親善試合のアイスランド戦、大久保は南アフリカW杯以来、およそ1年8カ月ぶりに代表に招集され、スタメン出場した。

「正直、俺はもう(代表に)呼ばれないと思っていた。代表への気持ちもなかったし、そもそも俺はサッカーを始めた時から、30歳になったらサッカーをやめようと思っていたんで(現役)引退を考えていた。そういうタイミングでの招集だったので、『えっ、俺が?』って感じだった」

 国内組中心とはいえ、遠藤保仁らレギュラーメンバーもおり、ザッケローニの戦術の落とし込みが短い時間のなかでも行なわれた。

「南アフリカW杯から攻撃的なサッカーへの転換みたいなことが言われていたけど、俺は『外国人監督をただ連れてくれば、攻撃的にできるわけじゃないぞ』って思っていた。でも、いざやってみると面白かった。

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