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元日本代表・名良橋晃が振り返る現役時代。国立で行なわれたW杯予選、引き分け後の暴動に「いつ帰れるんだ」という恐怖も体験した (2ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • photo by Getty Images

いろいろな経験をし、濃かった1997、98年

――1997、98年は、名良橋さんの代表キャリアのなかでもとくにプレッシャーの大きな2年間だったと思います。そのなかでとくに印象に残っている試合を挙げるとすれば、どの試合になりますか?

 ジョホールバルの試合はもちろんそうなんですけど、僕のなかではW杯予選ホームの韓国戦ですかね。僕はケガをしてスタメンではなかったんですけど、後半から出場しました。

 67分にモトさん(山口素弘)が記憶に残るループシュートを決めて、そこから逆転負け。「このままじゃいけない」と僕自身も思いましたし、世代別代表でも韓国に勝っていなかったので「また負けたか」と、そういう意味ですごく記憶に残っています。

――あの頃はサポーターの熱狂度もすごい時代でしたけど、韓国戦のチームの雰囲気はどうだったんですか?

 最終予選でまだ一つ負けただけだったので、そんなに下を向く選手はいなかったですね。ただ、国立でやった第6戦のUAE戦は一番怖かった。引き分けに終わってしまい暴動が起きて、一度バスに乗ったんですけどロッカールームに帰って、「いつ帰れるんだろう」と。本当に恐怖しかなかったですね。

 普通のバスでは帰れないから、(当時警備をしていた)シミズスポーツさんのバンに分乗して帰ったのを覚えています。あの時はものすごいプレッシャーを感じていましたね。

 あのサポーターの過激なまでの熱狂度というのは、誰しもが初めてのワールドカップ出場に懸けていて、日本サッカー界全体が一つになっていたんだなと改めて思います。

 ジョホールバルで出場が決まって、朝イチで帰国して、奥さんの実家近くのコンビニに寄ったんですよ。そこで立ち読みしていた女子高生2人の後ろを通った時「昨日の試合観た? 超興奮したよね」と話していて。女子高生までも引きつけたゲームだったんだと。それは忘れられないですね。

――フランスW杯はいろいろな面で難しいところはありましたか?

 すべてが初めてだったので、今みたいにゲームコントロールとか、そんなこと一切考えられなかったというか、わかっていなかったですね。初戦のアルゼンチン戦も試合の入り方とかわからなかったので、とにかくテンション高く入った感じでした。

 相手の選手の名前がすごくて。テレビゲームで使うような選手が目の前にいるわけですよ。ガブリエル・バティストゥータやアリエル・オルテガ、ハビエル・サネッティ、ファン・セバスティアン・ベロン、クラウディオ・ロペスとか。僕の対面はディエゴ・シメオネだったので「おいおい、シメオネだよ!」と。もう時効だから言いますけど、試合前はそんな気持ちでした。

 ただ、アルゼンチンはグループリーグなので、省エネで戦っていましたね。攻めさせるけど、怖いところはやらせない。戦っていて「これは100%ではやってないな」と。本気を出させることができなかったのは悔しかったです。第2戦のクロアチアもそんな戦い方だったので「これが世界なんだな」と痛感しました。

――第3戦のジャマイカ戦は、このままでは帰れないという気持ちで臨んだわけですよね?

 相手もグループリーグ敗退が決まっていて、ここはどんなことをしても勝たなきゃいけない、点を取らなきゃいけない。そんな思いで、僕はよりアグレッシブに行けましたね。0-2のビハインドからゴンさん(中山雅史)が魂のゴールを決めてくれました。

 当時、僕は全然気がついていなかったんですけど、ゴンさんが足の骨が折れていてもプレーしていたと聞いた時は、「やっぱりこの人はすごいな」と改めて思いました。

 ワールドカップで日本の初ゴールはゴンさんですけど、じつは初ポストは僕なんですよ。あのシュートが5cm内側に入っていれば......そういうシーンでしたね。でも僕のキャラ的に初ゴールより、初ポストが似合っていました(笑)。初ゴールはやっぱりゴンさんじゃないと絵にならないですよね。

――改めて振り返っても1997、98年の2年間は濃密でしたね。

 濃かったですね。プライベートでも1997年に子どもが生まれたので、サッカー選手としてだけでなく人としてもいろいろなことを経験して、あっという間に過ぎていた2年でした。

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