明神智和が20年前の日本代表の準備の甘さを吐露。「トルコ戦に向けて死に物狂いだったかというと、ノーだと思う」 (3ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by Getty Images

 20年前の日本代表を取り巻く状況を考えれば、選手が多少の安堵感を覚えたとしても無理はない。それはある意味で当然のことでもあるからだ。

 当時はまだ、日本代表が過去にワールドカップに出場したことは一度だけ。それも、グループリーグを3戦全敗で敗退しているのである。

 1勝どころか、まだひとつの勝ち点も手にしたことがないチームにとって、グループリーグ突破がどれほど困難なタスクであったか。選手が相当の重圧を感じていたことは、想像に難くない。

「自分では感じていなかったけど、グループリーグを突破することが目標だと言い続けてきて、その最低限の目標を突破したことによって、さらに上を目指すんだっていうエネルギーが、もしかしたら少し弱くなっていたのかもしれません。それはもちろん、あとになって思ったことですけどね」

 それから20年、日本代表はワールドカップで2度のベスト16進出を果たし、現在はベスト8進出を目標に掲げるまでに成長した。

 だが、当時は時代が違った。

 自国開催によってさまざまなアドバンテージがあったとはいえ、それを生かして、したたかに勝ち上がっていくには、日本代表はまだまだウブだったということだろう。

「とにかくグループリーグを通過しなければいけない。そのプレッシャーは感じていましたから、それを達成できた満足感がやっぱり頭のどこかにあったんだと思います。

 もしベスト8に絶対行かなきゃいけないんだとか、そういうチーム状態で戦っていれば、決勝トーナメント1回戦を迎える前に違った雰囲気を作れていたはずです。今だから言えることではありますけど、トルコと対戦する前にもっと自分からも発信して、もっともっとピリっとした空気を作って試合に入れていたら......って、それはもう、ずーっと思っていることですね」

(つづく)

明神智和(みょうじん・ともかず)
1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。

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