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福田正博が激白する『ドーハの悲劇』が起こったもうひとつの理由。黎明期にあった日本サッカーの明と暗 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by Kyodo News

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 しかも、「今と違って、選手層があまりにも薄かった」と福田。それまでオフトは、メンバーを固定して戦うことで日本代表の強化を図ってきたが、ワールドカップ最終予選を前に主力選手にアクシデントが相次ぎ、代役探しが難航する事態に見舞われてしまうのである。

「代表の活動期間が短いなかでも、できる限りコミュニケーションを深めて、コンビネーションを高めていかないといけない。あの時は同じメンバーで長くやったから、チームの成熟度は高まったと思います。

 ただ、チームの特徴は裏表だから、何かをとれば、何かを失うことになる。つまり、それをとることによって、控えの選手がなかなか活躍できないっていうことが出てきてしまいましたよね」

 結局、ケガで最終予選を欠場した都並敏史は言うまでもなく、どうにか最終予選に間に合ったラモス瑠偉や柱谷哲二にしても、万全のコンディションには程遠かった。

「今でこそ、日本代表の(レギュラー)センターバックがふたりいなくなってもまったく問題ないですけど、当時はその選手層がなかった。オフトが(メンバーを)固定していたから(選手層が厚くならなかった)っていう言い方はできるだろうけど、それだけの選手がいなかったのも事実。

 最後(ワールドカップに)出られなかったっていうのは、やっぱりその準備が日本サッカー界全体として、できていなかったからなのかもしれない。同じ年にJリーグができて、もう1年くらいあったら違ったのかもしれないけど......」

 のちの日本代表強化につながったJリーグも、黎明期の1993年当時は、その過密日程が裏目に出た。

 当時は、全10クラブによるホームアンドアウェーの2ステージ制。週2試合をこなすのが当たり前で、しかも、すべての試合が延長戦ありという過酷なルール。そのうえ、国際試合までこなす日本代表選手の体が、悲鳴を上げるのも当然だった。

「僕は浦和にマンションを借りていましたけど、移動、移動でほとんど家にいなかったですからね。しかも、ヴェルディ(川崎。当時)みたいに強いチームはいいですけど、(浦和レッズの)僕なんかはほとんど勝てないから、どんどん自信を失っていく。ひとりで勝手に、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと思い込んで、パニックになっていました。それで、無理をするから、ケガもする。いいコンディションじゃなかったのは事実です」

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