日本代表、敗れてこそ。挫折が改善を生んだW杯史、中田英寿の出現 (2ページ目)
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しかし、染みついた弱虫根性は簡単に拭えなかった。
「どうせ日本サッカーは世界に通用しない」
そんな"奥ゆかしさ"が通底していた。わずかに通用する部分に希望を持ち、ほとんどの通用しない部分にうなだれ、失望しながらも、負けるたび、勝てる要素を追求する。ある種、卑屈な時代だった。
「ワールドカップに出たことがない」
それが、日本サッカーの強烈なコンプレックスになっていた。
そんな流れを劇的に変えたのが中田英寿の出現だ。
中田のプレーはカズを凌駕するほどに革新的だった。世界基準のスルーパスは独りよがりにも映ったが、そのタイミングでなければ世界では通用しない。彼はひとつひとつのプレーで、荒々しいメッセージを発信したのだ。
異端なる存在が刺激を与えたのか――。日本代表は予選を突破し、1998年フランスワールドカップで初めて世界と向き合っている。
グループリーグでは、開幕戦で強豪アルゼンチンと対戦した。圧倒的な差はなかったが、エースのガブリエル・バティストゥータに抜け目なく放り込まれ、0-1で敗れた。クロアチア戦も、日本は後半途中まで0-0と"健闘"。パスを何度もひっかけられたが、必死のカバーや相手の拙攻で、事なきを得ていた。しかしエース、ダボル・スーケルに左足の一撃でゴールを破られ、またも0-1で敗れた。
ただし、わずかに見えた差は、実は小さくなかった。
1998年6月26日、リヨン。すでにグループリーグ敗退が決まったジャマイカ戦で、敗者としての現実を突き付けられた。勝利を見込まれたが、3連敗。史上初得点を記録するのが精いっぱいで、最下位に終わった。
◆語り継がれる中田英寿の伝説。あの日セリエAでイタリア人の度肝を抜いた>>
フランスワールドカップの後、21歳だった中田は日本を出て、海を渡る道を選んでいる。当時、世界最強リーグと言われたセリエAのペルージャに入団。世界に追いつくには、世界に打って出るしかなかった。そして開幕戦で、当時、世界最強を誇ったユベントスを相手に2ゴールを決めた。
「中田は、困ったらボールを預けられた。セリエAでも、才能は飛び抜けていたよ」
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