ドイツW杯、稲本潤一は選手として我慢すべき一線を越えてしまった (3ページ目)
決勝トーナメント進出を果たした2002年日韓共催W杯では、中山雅史や秋田豊らベテランが率先してチームを盛り上げ、引っ張っていく姿を見せた。フィリップ・トルシエ監督は、日本にはそういう人材が必要なことをわかっていた。
だが、ジーコ監督はその成功例を踏襲しなかった。海外組を中心に、能力が高い選手を招集してチーム編成をした。才能ある若手と中堅の実力派が融合し、タレントも豊富だったゆえ、ファンやメディアの期待も大きかったが、チームの中心である中田英寿らをイジって場を盛り上げる、中山のような存在がこのチームには欠けていた。
「そういう存在が、サブ組にいないとダメなんですよ。初戦を失ったあと、『もう1回、盛り上げていこう』とか、試合に出ている選手が言っても、どうしてもサブ組の選手には響かない。(ドイツW杯の時も)ゴンさん(中山)のような存在がいて、(チームを)ビシッと締めてくれたら、『また次に向けてやろうぜ』って、チームがひとつになれたと思う」
そう赤裸々に語る稲本も、当時は相当苦しんでいたのだろう。
日韓W杯では、ロシア戦で日本を勝利に導く歴史的ゴールを決めて、一躍時の人となった。その活躍でフラムへの移籍を勝ち取り、その年のバロンドールにもノミネートされた。ドイツW杯にも出場し、さらなる飛躍のチャンスをつかみたい――それは、稲本に限らず、選手なら誰しも考えることだ。
しかしこの時、稲本は選手としてもっと我慢すべき点があったと考えている。
「当時は自分のことばっかり考えていた。それは、やっぱり試合に出たら『自分のほうが絶対にやれる』っていう自信があったからやと思う。(当時)そういう選手ばっかりベンチに座っていた」
稲本は、1999年ワールドユース(現U-20W杯)で"サブ組"を経験している。同大会に出場したU-20日本代表は決勝まで駒を進めたが、稲本は1試合もスタメン出場がなかった。プレーした3試合はすべて途中出場。準決勝のウルグアイ戦では、途中出場してわずか11分で交代、という憂き目にも合っている。
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