稲本潤一が語る、1999年ワールドユースと
2006年ドイツW杯の違い (2ページ目)
無料会員限定記事
無理をしたのは、稲本なりの計算があってのことだった。
「もちろん、メンバーに選ばれることが最優先。それに、グループリーグは3試合あるじゃないですか。注射を打てば3試合のうち、どこかで少しはプレーできるだろうし、それが無理でも、決勝トーナメントに進出すれば、十分にプレーできる感覚があった」
無理した甲斐もあり、またトルシエ監督の信頼も大きかったのだろう、稲本は18名のメンバー入りを果たした。
だが、無理をしたこともあってか、膝のケガの回復は遅れていた。ナイジェリアに入る前のフランス合宿では、最後の練習試合にも出られず、クーラーボックスの上に座り込んで、厳しい表情を浮かべていた。
「あの時は、ほんまに膝が痛くて......。大会に入ってからも痛みが引かず、チームにかなり迷惑をかけた。自分はやる気満々でいたし、そのうち『治るやろ』って思っていたけど、甘かった......」
大会が開幕しても、稲本は膝の痛みを抱えたままだった。トルシエ監督の練習は、紅白戦などの実戦練習はほとんどなく、イメージトレーニングが中心だった。その分、練習で注射を打つことはなかったが、試合となればいつ出番がくるかわからないため、試合前には注射を1本、必ず打っていた。
注射を打つことで膝に負担をかけることになるが、それよりも「試合に出たい気持ちが勝っていた」と、稲本は当時を振り返る。
結局、グループリーグ3試合で稲本の出番はなかった。その間、稲本は"控え組"として、播戸竜二らとともにチームの盛り上げ役を果たした。
稲本は、当時最年少の17歳6カ月でJリーグデビュー。若くして、チームの主力選手となっていた。この代表チームでも同様で、ブルキナファソ遠征ではキャプテンを務めた。しかし、大会本番ではベンチに座る境遇となり、違和感を覚えることはなかったのだろうか。
「(違和感は)ぜんぜんなかった。(試合に出られず)気持ち的に難しい、ということもなかった。体調が万全やなかったし、膝が痛いので、90分試合に出るのは無理やった。そんな選手が文句を言っている場合じゃないでしょ。
全文記事を読むには
こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録より「集英社ID」にご登録ください。登録は無料です。
無料会員についての詳細はこちら