2019.08.05

稲本潤一が語る、1999年ワールドユースと
2006年ドイツW杯の違い

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第14回:稲本潤一(1)

「俺、何もしていないんでね」

 20年前の1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会を振り返って、稲本潤一は苦笑してそう言った。

1999年ワールドユースについて語る稲本潤一 稲本は、同大会に挑んだU-20日本代表のチームの立ち上がりから、中心選手のひとりだった。

 1995年U-17世界選手権(現U-17W杯)・エクアドル大会に、小野伸二や高原直泰らとともに出場。その後、1998年アジアユース(ワールドユースアジア最終予選)でも主力メンバーとして活躍し、1999年ワールドユース出場権獲得に貢献した。そして、A代表と兼任でチームを率いることになったフィリップ・トルシエ監督が指揮官に就任。1999年2月のブルキナファソ遠征では、キャプテンに任命された。

「なんで(キャプテンに)なったんか、全然覚えていない。トルシエ監督に『やれ』と言われたからやと思う。

(当初)みんなは、トルシエ監督の指導には面食らっていた。胸ぐらをつかまれたり、急に『走ってこい』って怒鳴られたりして、めっちゃ厳しかったから。なんか、監督と選手というより、先生と生徒みたいな感じやった。

 でも、自分は(当時所属の)ガンバ大阪で(フレデリック・)アントネッティ監督のもとでやっていて、フランス人の”熱い”ところとかをわかっていたので、(トルシエ監督の指導にも)そんなに驚くことはなかった」

 ブルキナファソ遠征では劣悪な環境のなか、練習と試合が続いて「めっちゃメンタルが鍛えられた」という。そこで、チームのベース作りも仕上がって、本大会でもそのまま稲本がキャプテンを務める予定だった。

 ところが、遠征から所属のガンバに戻って、Jリーグ開幕前の練習試合で膝を負傷した。最初は大したケガではないと思っていたが、検査の結果、重傷だとわかった。

 本来であれば、治療に専念すべき状態だったが、稲本はワールドユース出場をあきらめることができなかった。代表メンバー18名に選出されるには、メンバー決定前のJリーグの試合で、プレーできる状態であることが必須だったため、彼はある決断を下す。

「ガンバで試合に出るために、膝に注射を打って(試合に)出ていました。ほんまは(大事をとって)ガンバでは試合には出場せず、ナイジェリアに行きたかったんやけど……。そのために、結構無理をしましたね」