黄金世代、「播戸竜二に救われた」男が
チームに溶け込めた瞬間
無料会員限定記事
世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第6回:高田保則(前編)
「僕、(大会2カ月前の)ブルキナファソ合宿には行っていないんですよ」
高田保則は、苦笑してそう言った。
1999年ワールドユースについて振り返る高田保則 1999年1月、4月に開催されるワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会に向けて、U-20日本代表は福島県のJヴィレッジで合宿を行なった。同チームの指揮官を、A代表との兼任でフィリップ・トルシエ監督が務めることとなり、アジア予選を勝ち抜いたメンバーに限らず、代表候補となりうる面々が数多く招集され、高田もこの合宿で初めてU-20代表に選出された。
しかし、本番に向けて重要な合宿となる2月のブルキナファソ遠征において、高田は同メンバーから漏れてしまったのだ。その時点で、ワールドユース出場の目はほぼなくなった。高田は、落選した悔しさをたぎらせていた。
「1月の最初の合宿では(これまで招集されていなかったため)、正直『なんで、自分はここにいるんだろう』という感じでした。そういう気持ちが、練習の時からトルシエ監督や他の選手たちに伝わっていたと思うし、個人的には全然アピールできなかった。
でも、(小野)伸二とかと一緒にプレーして『すげぇな』って思ったし、(練習をこなすうちに)『この集団の中でプレーしたい』と思ったんですよ。だから、ブルキナファソのメンバーからは落ちたけど、チーム(当時所属のベルマーレ平塚)で結果を出して『(代表に)戻りたい』と思っていました」
3月6日にJリーグが開幕。高田は、ファーストステージ第1節の横浜F・マリノス戦、ワールドユース代表メンバー発表前の最後の試合となる第2節の清水エスパルス戦と、先発出場した。いずれも結果を出すことはできなかったが、18名のメンバーに滑り込んだ。
「(メンバー発表前には)『もうダメかな』と思っていました。でも、予防注射を打っていない選手が(ナイジェリアに)行けないということがあって、(自分がメンバーに選ばれたのは)そういう運もあった。
またその前年に、トルシエ監督がたまたま見に来ていた国立での横浜フリューゲルス戦で、積極的に仕掛けてサンパイオからPKを獲ったんです。最後はその印象もあって、メンバーに滑り込めたのかもしれません。とにかく、チャンスをもらったので、大会では自分ができることをすべて出していこうと思いました」
代表メンバー入りは果たしものの、高田は世代別の代表経験がなく、ブルキナファソ遠征にも参加していなかった。チームに合流すると、他の選手とはどこか空気の違いを感じるところがあった。
1 / 4