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平成を彩った日本サッカーの原点。
「世界への扉」が開かれた1996年 (2ページ目)

  • 飯尾篤史●文 text by Iio Atsushi
  • photo by Katsuro Okazawa/AFLO

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 この2年半前の1993年10月、日本は『ドーハの悲劇』によってワールドカップ初出場を目前で逃し、この2カ月後の1996年5月には、2002年のワールドカップ開催国が決まるという状況にあった。

 ワールドカップ出場を逃した以上、せめてオリンピック出場を決めて、ワールドカップ招致を優位にしたい――。若き日本代表は、そんな期待も背負わされていた。

 もっとも、大半が大学生だった1992年バルセロナ五輪予選のチームとは異なり、アトランタ五輪代表はプロで固められた精鋭たちだった。キャプテンの前園真聖や城彰二、中田英寿など、世界大会に出場して自らをアピールし、ヨーロッパのサッカーシーンに飛び出そうとする野心家も少なくなかった。世界への扉をこじ開けることを最も望んでいるのは、他でもない自分たちだという思いが強かったはずだ。

 メンバーには、伊東輝悦、廣長優志、川口能活、田中誠、遠藤彰弘らも名を連ね、サウジアラビアに劣らぬほどのタレント集団でもあった。その一方で、最終予選直前の合宿で"エース"の小倉隆史が右足後十字靭帯を断裂して戦線離脱。副キャプテンの服部年宏も右足首腱鞘炎で出場を危ぶまれていた。

 こうして期待と不安が交錯するなか、マレーシアで最終予選の幕が開き、勝てばオリンピック出場、というサウジアラビアとの大一番までこぎつけたのだった。

 この一戦に、西野監督はある"秘策"を用意していた。相手の2トップに上村健一、鈴木秀人の2ストッパーを当てるだけでなく、2列目のオベイド・アル・ドサリに対してもマンマークのスペシャリスト、白井博幸をぶつけたのだ。

 苦戦は必至――。ところが、戦前の予想に反して早くも4分、日本が電光石火の中央突破で先制ゴールを奪ってみせる。

 廣長の縦パスを前園がワンタッチで戻し、再び廣長がさらに長い楔のパスを城に入れる。城がダイレクトではたくと、そこに前園が走り込む。見事なワンタッチプレーの連続でサウジアラビアの堅守を破ると、前園が鮮やかにゴールネットを揺らすのだ。

 さらに57分、貴重な追加点がもたらされる。前園のパスを受けた伊東が、走り込んできた前園へ絶妙のリターン。前園が左足で冷静に沈め、2−0とする。

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