2019.04.09

なぜ黄金世代のサッカーは
「一度味わうと、ほんまにヤバイ」のか?

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 説田浩之●撮影 photo by Setsuda Hiroyuki

 それでも、準優勝という結果を出して、自分たちは世界を相手にも「やれる」という手応えを得た。辻本にとっては、その後の自分のサッカー人生に何かしらの変化をもたらすきっかけになるはずだったが……。

 日本に帰国すると、J1ファーストステージを戦う所属の京都パープルサンガ(現京都サンガFC)は最下位に落ちていた。

 1996年からJリーグ入りを果たした京都だが、その初年度は最下位(16位)。以降、ずっと下位に甘んじていた。チームを率いる監督も目まぐるしく代わって、辻本らがワールドユースから帰ってきたあとも、清水秀彦監督(1998年7月~1999年6月)、加茂周監督(1999年7月~2000年6月)、ゲルト・エンゲルス監督(2000年6月~2003年6月)と、およそ1年で2度も指揮官が代わった。

 そんななか、辻本は不安定な状況にあった。レギュラーの座を確保できないうえ、サイドバックで起用されることもあって、自らのよさを出せずにいた。

「京都に戻ってきた時は、代表でやってきたという自信があったし、テッシー(手島和希)も一緒だったので、センターバックのレギュラーとして『やれる』と思っていました。そのうち、チームでも3バックをやるようになって試合にも出られるようになったんですが、監督が代わって、また試合に出られなくなって……。

 それで、『なんで?』って腐りかけたときもありました。でも、ナイジェリアで控え組の選手たちの取り組みを見ていたんでね。試合に出られなくても、『チャンスが来たら挽回してやろう』という気持ちを持って日々の練習に取り組んでいた。

 また、DFリーダーになって『チームを引っ張っていこう』という意識もあったんです。実際、試合に出たときは、自分の中で納得できるプレーができた感触が何度もあったんですけど……。う~ん……、うまくいかへんかったですね」

 所属チームに戻った辻本は、どこか空回りして、思うようなプレーができずに苦しんでいた。