2013.10.15

あれから20年。いま日本人が「ドーハの悲劇」を振り返る意味

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by AFLO

 カタールは一般的な国とは少し国情が違う。1993年10月。アメリカW杯アジア最終予選の期間中、外からやってきた報道関係者は、ドーハ市内の「ラマダホテル」に半ば強制的に滞在させられることになった。

 このときの最終予選は集中開催方式で行なわれ、期間はおよそ2週間。限られた空間で毎日を送っていたので、少なくとも日本人とは、ものの2、3日でほぼ全員と顔なじみになる。

1993年10月15日に始まったアメリカW杯アジア最終予選。日本は最終イラク戦の後半ロスタイムに同点ゴールを決められ、W杯初出場を逃した 暇そうな相手を見つけては、朝昼晩、それこそ四六時中、至るところでサッカー談義に花を咲かせていた。みんな血気盛んだった。W杯本大会をここまで身近に感じた経験がなかったこともある。ウブだったので、談義はしばしば口論に発展した。W杯に「行ける。行けない」で、大いに盛り上がった。

初戦でサウジアラビアに0-0と引き分け、続くイラク戦を1-2で落とした日本だが、北朝鮮、韓国に3-0、1-0と連勝。この時点で首位に立ち、最終戦でイラクに勝てばW杯初出場が決まる状況だった 僕は火に油を注ぐ係として貢献した。「行けない」派であったことは言うまでもない。「他国より戦力で劣っている」と最初から言い張り、多くの人の反感を買った。

 参加6ヵ国中、日本より劣っていたのは北朝鮮1チーム。いま振り返ってもその意見に変わりはない。そこで日本は3位になった。最後のイラク戦に引き分け、日本の願いは潰えた。最後の最後で同点ゴールを浴びるまさかの敗戦ではあったが、順当といえば順当な結果だった。