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【プロ野球】門田博光の加入で守ったレフトでもベストナインに輝いた石嶺和彦 「サッサ」という愛称は松永浩美がきっかけ?

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

昭和のプロ野球秘話

松永浩美が語る石嶺和彦とのエピソード 後編

(中編:落合博満がコーチに招いた天性のバッター 同期の松永浩美に「このままでは勝てない」とスイッチヒッター転向を決意させた男>>)

 松永浩美氏に聞く、阪急やオリックス、阪神で活躍した石嶺和彦氏とのエピソード。後編では、石嶺氏と同じポジションの門田博光氏との関係性や、石嶺氏が「サッサ」という愛称で呼ばれるようになった理由などを聞いた。

阪急時代、56試合連続出塁の日本新記録(当時)を達成した石嶺氏 photo by Sankei Visual阪急時代、56試合連続出塁の日本新記録(当時)を達成した石嶺氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【門田博光とレフト、DHで併用】

――松永さんや石嶺さんが現役だった1980~90年代のパ・リーグは、落合博満さんや門田博光さん、秋山幸二さん、清原和博さんら多くの強打者がいました。石嶺さんもそれに匹敵するレベルでしたか?

松永浩美(以下:松永) 通算の成績では少し劣ってしまうかもしれませんが、半月板のケガと肝炎がなければもっとすごい数字を残していたはずですし、「石嶺」という名前がメディアでバンバン出ていたと思います。バッティング技術は天性のもの。私はあまりほかの選手のバッティングを見ないのですが、門田さんと石嶺は見るべきものがあったので、特打ちなども見入っていましたよ。

――それだけ技術が高かった。

松永 高校時代からすでに完成されていた感じでしたね。シンプルな立ち方、下半身と上半身の連動のさせ方、リストが利いたスイング、タイミングの取り方など、すべてが備わっていました。体は決して大きくないのですが、技術で十分にカバーしていました。

――1988年オフ、門田さんが南海からオリックスに移籍します。ポジションは石嶺さんと同じレフトでした。

松永 門田さんはオリックスに来た時に40歳を過ぎていて、石嶺よりもだいぶ年上でした。門田さんはアキレス腱断裂の後遺症があったので、その日の足の状態がよければレフトの守備につき、あまりよくなければDHで出場していましたね。石嶺も半月板に不安を抱えていましたが、門田さんに負担をかけないようにと、レフトの守備を頑張っていました。ポジションを争うライバルという感じではなかったです。

 1989年は交互にレフトを守っていた記憶がありますね。石嶺の時はそうでもなかったですが、門田さんがレフトを守る時は、内野手は送球をカットするためにだいぶ近くまでいってフォローしていました。

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著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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