【プロ野球】「なんでカーブを投げるんだ」 長嶋茂雄に本塁打を打たれた夜から始まった 鈴木孝政をセーブ王に育てた近藤貞雄の流儀 (3ページ目)
「でも、実際は30球じゃなかったです。中3日空いたら3イニング、2日空いたら2イニングという感じで、空いた日数分のイニングを投げることを求められました。雨で試合が流れたり、移動日が入ったりすると、『うわぁ、次は3イニングか......』って思いましたね(笑)。3イニングはきついですよ。そりゃ規定投球回にも到達しますよね」
快速球とフォークを武器に、鈴木は1975年から3年連続でセーブ王を獲得した。リリーフエースとして一躍脚光を浴び、「セーブ王というタイトルは鈴木のためにつくられた」と称賛された。
ただし、当時の抑えは現在のような1イニング限定ではない。イニング途中からの登板は当たり前で、ときには3イニングを任されることもあった。そのため鈴木は3年連続で規定投球回に到達。1976年には最優秀防御率のタイトルまで獲得している。
しかし、その代償は小さくなかった。登板過多の影響もあったのだろう。1978年、鈴木は右ヒジを痛め、シーズン後半を棒に振ることになる。それは、監督がウォーリー与那嶺から中利夫へと代わり、近藤が退団したあとのことだった。
試合での投球過多を否定し、投手の限界を見極めていた近藤だが、鈴木の故障をどう見ていたのかは定かではない。ただ、1989年に出版した自著『野球はダンディズム'88』(近藤貞雄著/朝日新聞社)でこう述べている。
<どううまく調整しても、リリーフ投手の疲労の蓄積は三、四年で限界に達する。そうなったらもう抑えは無理だ。先発に戻し、抑え役のプレッシャーから解放してやらなければいけない>
【休ませて勝つ合理的野球】
1981年、近藤は監督として中日に復帰する。そして翌82年5月、鈴木が抑えに失敗した試合をきっかけに、先発に転向させている。投手コーチの権藤博からの助言もあり、投球の幅を広げた鈴木は9勝を挙げ、同年のリーグ優勝に貢献。この起用法からもわかるように、近藤の考えでは抑えは先発復帰が前提であり、現在の抑えとは別物と言える。当時の分業制はあくまで先発本位だった。
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