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【プロ野球】「なんでカーブを投げるんだ」 長嶋茂雄に本塁打を打たれた夜から始まった 鈴木孝政をセーブ王に育てた近藤貞雄の流儀 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

「最初は先発として育てられていましたからね。それが翌年、シーズン当初は星野(仙一)さんが抑えもこなしていたんです。でも、先発と抑えの二刀流なんて、やっぱり無理がある。そしたら5月頃、近藤さんに『星野を先発に回すから、おまえはケツをやれ』と言われたんです。『ケツ?』って思いましたよ」

 リーグ優勝の1974年にセーブ制度が導入され、投手分業制が本格化する追い風となった。とはいえ、当時の星野はまだ分業の枠に収まる存在ではなかった。先発と抑えの両方をこなし、49試合に登板して188イニングを投げ、15勝10セーブで初代セーブ王に輝いただけでなく、7完投で沢村賞まで受賞している。

 つまり、星野自身は「分業制」の投手ではなかったのだ。さすがに翌年は先発に専念することになり、そのあとを引き継ぐ形で鈴木が「ケツ」、つまり抑えを任されることになった。

【球数管理から生まれた独自の投手カルテ】

「こっちはまだ実績も経験もありませんからね。そんな大事なポジションを任されても......。もちろん『どうなっても知りませんよ』とは言いませんでしたけど、腹の中ではそんな気持ちでした。抑えなんて未知の世界でしたし、まったく自信はなかったです」

 近藤はその頃、チームの各投手が「試合で、ベストの状態で何球まで投げられるか」、限界の見極めに努めていた。結果、各投手は4タイプに分けられると見立て、<A=100球、B=80球、C=50球、D=30球が限界>というカルテを作成。ゆえに投手分業=継投については、<AプラスD>、<BプラスC>といった組み合わせを基本とした。

 もちろん、登板間隔による限界もあるが、それでも近藤の評価では、鈴木は十分にA。中3日で先発し、120球を投げても球威が落ちない。チームの大黒柱になれる投手だと判断していた。

 ならば抑えに回した場合2日続けて登板したとしても、1試合30球ならベストの状態で投げられるはず──。それが近藤の考えだった。それを聞いた鈴木は、「それぐらいだったら毎日だって投げられると思っていますが......」と答えたという。

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