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【プロ野球】今季で引退の中田翔「すすきの行きたい」「小遣い30万、少ない」 球団スタッフが綴るルーキー時代の豪快伝説 (2ページ目)

  • 加藤潤●文 text by Kato Jun

 また、張本勲氏や江本孟紀氏をはじめ、球界の重鎮や名のあるOBたちが、連日のように鎌ケ谷を訪れた。そのなかで強く印象に残っているのが、テレビ朝日の『報道ステーション』でのインタビューである。インタビュアーを務めていたのは、当時スポーツキャスターであった栗山英樹氏だった。

 取材当日は小雨模様で、鎌ケ谷スタジアムを訪れたファンの数は少なかった。取材を終えた中田は、インタビューを行なっていた小部屋の窓を開け、その場にいたファン全員にサインを書き始めた。

 すると、栗山氏と、同行していた武内絵美アナもファンの列に並び、中田にサインをおねだりした。私が「おふたりもサインいかがですか?」と促し、「え、いいんですかね?」と答えたような流れだったと記憶している。

 なんとも微笑ましい光景だった。サインを受け取ったふたりは、そのあとはサインを書く側へとまわり、丁寧にファンサービスに応じていた。牧歌的だった当時の"鎌スタ"らしい光景だ。

 後年、ファイターズの一時代を築く名監督と4番打者の出会いは、以上のようなものだった。

【陽岱鋼との未来の三遊間】

 その後、私は中日ドラゴンズへと移ったため、ふたりが共に過ごした2010年代の黄金期を経験していない。それゆえ、私のなかでの栗山氏と中田の関係は、当時から上書きされることなく、スポーツキャスターと大物ルーキーのままである。

 この年の秋も思い出深い。宮崎でのフェニックスリーグでは、サードに中田、ショートに陽岱鋼(当時の登録名は「仲壽」)がついた。広報レポートに「未来の三遊間」と記したことを思い出す。

 数年後、ふたりが札幌ドームの左中間を守ることになるとは、当時は思いもしなかった。ましてや、陽が改名して名前まで変わるとは、まったく予想外だった。

 当時のファイターズのファームはスタッフの人数が限られ、肩書きに関係なくみんなで助け合う環境だった。思い出すのは、宮崎・西都の室内練習場での出来事だ。

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