勝てなくても投げ続けたヤクルト暗黒時代のエース・尾花高夫が振り返る指揮官・関根潤三との3年間 (2ページ目)
── 前任の土橋監督時代には、先発も中継ぎも任されていました。例えば86年シーズンは34試合に登板して、先発が27試合、リリーフが7試合でしたが、関根監督就任2年目となる88年には31試合登板して、リーグ最多の31先発となっています。
尾花 それなりに配慮してくれていたのかどうかはわからないけど、88年は伊東昭光がリリーフを任されていたので、先発に専念することができたのかもしれないですね。やっぱり、そうなるとラクですよ。中6日に合わせて調整をすればいいんだから。
【個性的な助っ人たち】
── 関根監督時代には、当時若手だった広沢克己(広澤克実)さん、池山隆寛さんが台頭し、少しずつチームカラーも明るくなって、得点力も向上していきました。
尾花 たしかに広沢、池山にホームランが出るようになって得点力は上がりましたね。関根さんの時代は外国人選手も一発を打てる選手が多かったから。
── 87年にはボブ・ホーナー、88年はダグ・デシンセイ、そして89年はラリー・パリッシュと、一発が期待できる大物助っ人が相次いで来日しましたね。
尾花 それまでと比べると得点力は上がったかもしれないけど、まだまだ確実性には乏しくて、荒削りの打線ではあったと思います。ホーナーは怠け者でほとんど練習をしなかった(笑)。だけど、彼とはよく飲みに行きましたよ。彼はバーボンコーラが大好きで、そればっかり飲んでいましたね。
デシンセイは東京ドーム第1号ホームランを打って、守備でもファインプレーをしてくれて、僕が「東京ドーム最初の勝利投手」になることができました。パリッシュは足が悪かったので、守備範囲は狭かったけど、バッティングはすごかったし、何よりも人間的にいいヤツでした。
── 関根監督2年目となる1988年に開場した東京ドーム。第1号ホームランを放ったのがデシンセイ選手で、勝利投手となったのが尾花さんでした。この試合のご記憶はありますか?
尾花 もちろんありますよ。開幕戦は(季節外れの)大雪だったんです。家を出るときに「これは中止だな」と思ったんだけど、「いや、ドームだから試合はあるのか」と気づいて、女房に「電車は動いているのかな?」と言いながら、車ではなく電車で水道橋に行くことにしました。普段、ジャイアンツはデーゲームをしないんですけど、この日はオープン記念ということで、巨人対ヤクルトがデーゲームで、ナイターで日本ハム対ロッテを行なったんです。
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