敗戦処理からスタートした「ヒゲ魔神」五十嵐英樹のリリーフ人生 心に響いた権藤博からの助言 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 静岡・東海大工高(現・東海大静岡翔洋高)から三菱重工神戸(現・三菱重工West)を経て、ドラフトでは3位指名。神戸製鋼の補強選手として出場した都市対抗でその速球が注目されたが、社会人5年目に開花し、1年目には一時的にプロ入りを断念したという投手。まずは自身の立ち位置を明確にすることから始めた。

「プロに行くのはこういう人だ、っていうピッチャーをたまたま間近に見た時、『こんな人にオレはなれんから野球やめよう』と思ったんです。そんな僕でもプロに入ったけど、技術がないから、自分のなかで今のランクは三流か四流ぐらいだなと。そこからどうやって一流の選手と張り合うか、そればっかり考えてました。張り合って、どうにかして、一軍に上り詰めるんだと」

【ケガから復帰後の役回りは敗戦処理】

 1年目の93年、五十嵐は一軍昇格と二軍降格を繰り返し、一軍では27試合に登板。敗戦処理から始まり、結果がよければ勝ち試合で投げ、抑えでの起用もあった。2年目からは谷間の先発もあり、3年目には6勝を挙げるも8敗と負けが先行。"便利屋"のような使われ方をする日々が続いた。そのなかで五十嵐自身、「このポジションで投げたい」といった願望はあったのだろうか。

「願望というよりも、自分のなかでは『先発は不向きだな』と思っていました。投げて中6日なら1週間、調整してマウンドに上がるというよりは、いつでも上がれるほうがラクだったんです。自分は怠け者なんで。いろいろと、やるべきことを忘れちゃうんで(笑)」

 半ば必然的にリリーフ専任となった五十嵐だが、大矢明彦が監督に就任した96年には自己最多の46登板で9勝6敗2セーブ、126回1/3で防御率3.38と好成績を残す。すなわち「勝ち試合の中継ぎ」というポジションをつかみ、7月26日からの対広島3連戦では3試合連続救援勝利もあった。だが、8月22日の巨人戦で9勝目を挙げたあと、右ヒジを痛めて離脱してしまう。

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