江川卓と高校時代に対戦した篠塚和典はショックを受けた「この球を打たないとプロには行けない」
連載 怪物・江川卓伝〜安打製造機・篠塚和典を育てた2本のヒット(前編)
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篠塚和典(1992年途中まで登録名は篠塚利夫)に名球会入りを期待していたと告げると、即答でこう返ってきた。
「オレも2000本打てると思っていましたよ」
やっぱりそうでなくては、と妙に納得したものだ。嫌味でもなんでもなく、これこそが天賦の才を持つ所以だと思った。
日本人はすごい人を見ると、すぐに「天才」と騒ぎ立てる。だが世の中、本当の意味での天才などめったに存在しない。唯一無二の存在だからこそ、天才の称号に価値があるのだ。それは「怪物」だって同じだ。
日本人アスリートの歴史において「怪物」と呼んでいいのは、ジャンボ鶴田と江川卓だけではないかと思う。天才も同様で、サッカーなら小野伸二、野球ならイチロー。怪物はいつもふてぶてしく、天才は常に涼しい顔をしている。長嶋茂雄、王貞治、落合博満、前田智徳、大谷翔平といった面々は、"天才"や"怪物"とはまた別のカテゴリーに属している。それは篠塚も同じで、天才というよりもアーチスト。打撃、守備ともに柔軟で華麗な芸術家だった。
打っては巧みなバットコントロールで狙いすましたかのように野手の間を抜き、守っては柔らかい身のこなしと華麗なグラブ捌きで好捕を連発。あのイチローも篠塚に憧れ、篠塚モデルのバットを使っていたのは有名な話だ。1980年代の篠塚は紛れもなく巨人のスター選手だった。
銚子商時代の篠塚和典 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【高校入学直後に江川から安打】
江川は、高校時代の篠塚のことをはっきりと覚えている。作新学院3年の江川が、銚子商に入学したばかりの篠塚にヒットを2本打たれたことで、「ほぉ〜」と感心したからだ。そもそも高校時代の江川は、1試合に打たれるヒットは1本か2本程度。それが入学したての1年生に打たれたものだから、江川の記憶のなかに強く残っているのだ。
篠塚にとって江川との出会いは、ある意味必然だったと言える。篠塚が回想する。
「中学3年の春に、銚子市営球場で作新の江川さんを見ました。授業があったけど、中学の野球部の監督が『見てこい』って言うので、みんなで行きました。もうその頃は、銚子商業に行くと決めていました。球場に入ってグラウンドを見渡すと、江川さんはどこにいるのかすぐにわかる。ほかの選手と違う存在感というかオーラがありました。ただただ『すげーな』ですよ」
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。