江川卓の高校時代を石毛宏典が振り返る「もう現れないんじゃないですか、あんなピッチャーは」 (2ページ目)
また江川と同学年であるタレントの明石家さんま、島田紳助がそれぞれテレビで江川と初共演した時のことだ。「うわっ、江川だ」と芸能人らしからぬ声が漏れ、紳助はゲストで出演していた俳優の佐野史郎に「江川ですよ」と呼びかけ、一緒になって「おおっ、江川だ!」とまるで一般人のような反応をしていた。それほど江川は同世代の人間にとって眩しい存在だったのだ。
【大学時代の江川からホームランも...】
石毛は千葉の市立銚子から駒澤大学に進学し、4年生の中畑清(元巨人)の部屋子を1年間やり、大学野球の厳しさを嫌というほど教えられた。
1年春からショートのレギュラーで活躍していた石毛は、大学2年の11月3日に明治神宮球場竣工50周年記念奉納野球大会で東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗戦に出場し、リリーフに上がった法政大学の江川からレフトへ2ランホームランを打っている。
「たまたまレフトにホームランを打ちましたが、なんだろうね......高校時代の我々のスピード感からすると、速いボールといえば銚子商の土屋(正勝/元中日)くらいしか見たことがなかったんで。大学に行って、社会人とオープン戦をしたり、それなりに速いピッチャーと対戦して目も慣れていたんでしょうね。でも江川さん、この対抗戦は本気で投げていないでしょ」
石毛にとっては、余興ともいえる試合でホームランを打っても何の自慢にもならないといった感じだった。
駒大を卒業した石毛は、プリンスホテルを経て1980年に西武からドラフト1位で指名され入団。81年のルーキーイヤーは、開幕からレギュラーを奪取し、打率.311、21本塁打、55打点。シーズン終盤まで首位打者争いをするなど、圧巻の成績で新人王を獲得。
「アマチュアとプロと比べて、スピードの差といっても、日米野球で対戦したデレク・タツノも速かったし、当然、江川さんもいたし。それよりも変化球のキレとコントロールにびっくりしましたね。新人の頃は、ほんとに無我夢中で打席に入っていた感じ。監督の根本(陸夫)さんは、今みたいにデータがあってどうのこうのではなく、来たボールを打つ感じだった。それがある意味、野球選手にとって一番いいのかなと思います。どれだけデータを収集してもそのとおりに来るわけじゃないし、やっぱり真っすぐを待って変化球にも対応していくのがバッターの本質じゃないかな。野球人の本能の赴くままに立ち向かっていったほうが、面白いのかもしれないね」
2 / 3