「木樽のシュート、成田のスライダー」。1970年のロッテで輝いたライバル (2ページ目)
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「もちろん、ほかにもいろんな治療をしましたけど、ひとつ、当時監督の濃人渉(のうにん わたる)さんが広島の出身で、『鍼(はり)の先生がいるから行ってこい』って、広島に行ったときに言うわけ。
それで行ったところが、金鍼って言って、場所にもよるけど、ポンポンポンって1センチなり、2センチ、入れるでしょ? 入れたらハサミで切ってね、中に埋め込むんです。金は軟らかいから切れるのね。こっちは藁(わら)をもつかみたい気持ちだから、治るんだったらと」
鍼を、切って、体に埋め込む......。再び「えぇーっ?」と声を上げるしかなかった。
「鍼を体に埋め込むなんて、西洋医学の立場から言うと『邪道中の邪道』なのね。でも私にはそれがよかったのか、まあ、それがすべてじゃないにしても、悪いほうに作用したことはなかったんです」
体にメスを入れる以上に壮絶......と感じられる治療とリハビリを経て、腰の状態が改善した木樽さんは4年目の69年に復活。かねてから"投手分業制"を提唱し、実践していた近藤貞雄(元・中日ほか)が投手コーチに就任し、再び抑えを任された。
69年の木樽さんは15勝を挙げ、1.72という数字で最優秀防御率を獲得している。今の時代にこの記録とタイトルだけを見れば、当然、先発ローテーション投手と思い込むところだ。が、実際には51試合に登板したうち、先発はわずか6試合。それでいて規定回数を超える162イニングを投げたからタイトルの対象となったのだ。
ただ、当時はまだセーブ制度もホールド制度もなく、抑えのみならずリリーフの投手に対する球団の評価は格段に低かった。そこで木樽さんは抑えを拒否し、首脳陣に先発起用を納得させたというから、当時22歳にして、強気に出られるだけの精神性とプライドを持っていたようだ。
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